親愛なるクマと、蠍座と柔軟宮グランドクロス

りんごマミです。

6月は、柔軟宮のグランドクロスが世の中を沸かした月になったかと思いますが、そんな中で思い出したことが。
それは、
「人間は、分子とか宇宙とか大小様々なスケールがある中の、とある一角でただ一時期現象化しているもの」
という考え方です。
柔軟宮グランドクロスでは、迷いや変化の中で揺さぶられて、確かなものがわからないという状況に陥った方もいらっしゃったのかもしれませんが。しかし、本来的に人間は、確かではない流動的なもので、吹き飛ばされないようにしがみついていても、それは自然ではないということなのです。

*****

ヒビノケイコさん(@hibinokeiko)という人気ブロガーさんは、『「自分らしさって何ですか?」対談・タイの僧プラユキナラテボーさん×ヒビノケイコ』という記事の中で、自我についてプラユキナラテボーさんと対談しています。

★自我を無くすのではなく、とらわれないこと。
★枠にとらわれちゃうと、ほんとは発展可能性がいろいろあるのに、自由にできない。

つまり、自我を持ち過ぎれば、とらわれ過ぎて自由にできない、流れに乗って更に大きくなることができない恐れがあるということ。

★だからといって、自我や土台がなく、柔軟性のみであると、「その場その場で生きている人」にしかならない。
★自我の良さというのは、一貫した行動をとれること、「わたし」をしっかり持つことで能動的にわたしを動かしていくことができること。

一方で、自我がなければ、ただ流されて何にもならないということ。
これらのことから、「自我があることで、人間は“何か”になれる」「大きくなるには、流れに身をまかせることが必要である」ということが伺えます。

*****

ということで、ここからはわたしの考えですが、柔軟宮グランドクロスの中で人が人として成長するには、
「自我を最小限にする」
「それ以外のことは、身を任せる」
という2点を行えば良いのではないでしょうか。
自我を最小限にするとは、自分の最も大切なもの、こう生きていけば後はまあ何でもいいというものを見出すこと。例えば、仲間と飲んで暮らせたらそれでいいとか、毎日好きなアイドルの顔を劇場で見られたら他に何も望まないとか。そして、これらを見つけ出すポイントが、太陽と月の統合なのだと思っています。太陽と月が望むものの重なる部分、太陽と月が両方とも満足すること。
一方、身を任せるということは、その時に置かれていた環境やたまたま起こった事件、他人から頼まれることなどに乗っかること。これらは、どちらかと言えば、太陽月以外の天体、特にトランスサタニアンかと思います。

というのも現在、蠍座においてその支配星である火星と冥王星がダブル逆行を行なっているのです。そしてトランスサタニアン・冥王星は柔軟宮グランドクロスに対して、唯一の調停の位置にあると言ってもよいほど。 つまりは上に書いたような蠍座的見直しが、迷いと変化の柔軟宮グランドクロスというブリザードを乗り切る手がかりとなるのではないでしょうか。

蠍座という星座は流されるのが嫌いな反面、しっくりはまると、いとも簡単にたくさんのものを手放す星座です。手放すことは決して簡単ではなくて、お気に入りのクマのぬいぐるみを、もぎ取られるような怖さもあったり。でも、クマは多分既にけっこう汚いし、洗濯しても綺麗になるか怪しいし、よくよく考えればクマの実態はただの布とか綿とかなのです。自分が何よりも大切にしたいものが布と綿なのかと問われれば、そんなわけはありません。もっと抽象的な何かが込められているはず。例えば、愛とか。それをクマにこだわらずに、様々なもの・人に見出していくことが、より大きな愛を手に入れて、その人が人としていっそう大きくなるきっかけだと思うのです。

今回のグランドクロスは、自我から無駄なものを洗濯機のごとく振り落として、とてもとても小さくしてしまう契機だったのではないでしょうか。すると、自分のどうしても譲れない部分、つまりクマに込められた何かだけが立ち現れてきます。忙しくなったら、初めて優先順位を決め出すように。そうして気付いた太陽と月の重なる部分は、突き詰めていけばとても個人的なもので、しっくり手のひらサイズ。極論、それを大切にしてさえいれば、他はどうでもよいわけです。すると、逆に自由度が増して。手のひらサイズのソレを大事にしながら、それ以外は任せます死なない限りというスタンスで生きていけば、人生を肚が座りながらも身軽で柔軟なものとして翔んでいくことが出来るのではないかと。とても
難しいことだと思うのですが、そう思うのであります。