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山羊座では、社会という枠組みの中で自らの最高到達点を目指しました。
しかしその到達点は、あくまである特定の社会の中でのことであって、別の時代や場所から見れば取るに足らないものであったり、アンフェアなものでさえあったりします。

この次の段階としてみずがめ座では、特定の社会がとらわれる時代性や地域性を超えて、ものごとの本質が持つ普遍性をヒューマニティの向上へと役立てることが目標となります。

ただ、本質を知り語るがゆえに、みずがめ座は、普遍的な真実を明らかにすると称賛されることもあれば、はたまた反逆的で変わり者だと非難の対象になることもあります。
それはみずがめ座が二面性を持っているということではなく、情報の受け取り手側のキャパシティの問題です。

受け取り手に自分たちの常識から離れた考えも咀嚼してみようという度量があるならば、みずがめ座の語る本質は普遍的な真実と理解され、「いままで言葉にできていなかった大切なことを気づかせてくれた」と称賛されることになります。

一方、受け取り手が時代性や地域性にとらわれた視野しか持たなければ、その本質は彼らが安住している世界観を覆しかねない反逆的なものに映るでしょう。

自らが知り語ることが反逆的だととらえられたときには、みずがめ座にとっては自身の目標や存在意義、全人類への愛の行為に対する否定を意味し、深い苦悩を感じます。
しかし、パーソナルな一喜一憂が行動を左右する個人天体に支配される星座とは違い、より大いなるものが個人を動かすトランスサタニアンの天王星に支えられているみずがめ座は、いかなる苦悩があろうと自らの愛の行為を止めることはありません。

今回はみずがめ座に太陽を持つマネの絵画を題材に、この星座に特有の称賛と非難、また、天王星がこの星座に与えるトランスサタニアン的な特徴についてお話ししていきたいと思います。

まずはこの作品をご覧ください。

当時のフランスでは「スペイン趣味」が大流行していて、マネもこの作品の他にもスペイン風の人物や風俗を描いた作品をいくつも残しています。
しかし、マネにとっては流行が大事だったわけではありません。

三菱一号館美術館長の高橋明也氏は著書「もっと知りたいマネ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション:2010年)」のなかで、この当時のマネについてこのように記しています。

若いマネの心は、流行の「スペイン趣味」の異国的で華やかな情緒にとらえられた。しかしやがてそれは、ベラスケスらの絵画が持つ本質的な要素に置き換えられていった。宮廷人や道化、民衆などに対する寡黙で偏見のない目、そして単純で大胆な筆捌き、簡潔な色彩と構図。

マネはこの作品でサロン初入選を果たし、当時の新聞の批評欄では、

ベラスケスなら友情に満ちたウインクで彼を向えるだろうし、ゴヤならタバコの火を借りに来るだろう。マネのこの等身大の人物像には、才能が込められている

このような賛辞を送られています。

またこの作品は当初、サロン会場の壁の上のほうにかけてあったにもかかわらず、観覧者の希望で見やすい位置にまで下げられるほどの人気を集めました。

昨年の11月に、この作品も含めマネの絵画を20点余り一同に見る機会がありましたが、その時の私の印象は、「ある人物やシチュエーションについて語るべきことがあるならば、マネは一枚の絵の中でそれをすべて語ろうとしているのではないか」というものでした。

マネ自身も「僕らは時代の子だ。見たままを創らなければならない」と語っているように、彼の作品には、伝統的な絵画によく見られた宗教色の濃いオブジェクトを構図に取り入れることはなく、人物に様式美に従ったポーズを取らせることもなく、マネが見たものを絵画として本質的に表現する取り組みだけがなされているように見えました。

この作品もマネにとっては、この人物や時代背景を最も端的に表現できる瞬間を描いただけですが、当時にしてはかなり革命的で、過分な装飾や意味合いを排して「見たままを創る」という作品が人気を博したのは、スペイン趣味の流行によって異国風の作品が受け入れられる下地が人々の間にできていたからかもしれません。
これは、みずがめ座が知り語る本質が人々に受け入れられ、称賛されたひとつの例と言えるでしょう。

では次にこの作品をご覧ください。

闘牛士の格好をしている人物は実は女性で、マネの作品では何度も描かれているヴィクトリーヌ・ムーランというモデルです。

私個人としては、絵を見るだけでヴィクトリーヌの持つ快活さ、独立心、プライドなどが伝わってくるようでとても興味深い作品だと思いましたが、当時の批評家からはこんなコメントを投げつけられています。

若い女性の、奇妙な衣装と奇妙な気晴らし。彼女にはもっとおだやかなものを追い求めてほしいし、保存食を作るのが上手な女性と、牛を殺す才能がある女子のどちらかを妻に選ばなければならないとしたら、私は前者を選ぶだろう。

これこそが、まさにみずがめ座の語る本質が反逆的に扱われている例でしょう。

マネはモラルや善悪など一切の価値判断を交えず、ただ彼女のあるがままのパーソナリティをとらえ、絵画として表現したにすぎません。
しかし、特定の時代や地域の常識にとらわれている人たちから見ると、「独立心や職業人としてのプライドを持った女性もいる」という、現代では当然のこととして受け入れられていることを表わしただけで、彼らの世界観を覆しかねないアンモラルなものと映ってしまうのです。

そしてこの例のように、みずがめ座は、ものごとの本質を知り語ることが原因で人々から非難を浴びることがあります。しかも、それはみずがめ座の立場から言うと、自身が気づきを与え固定観念から解放しているはずの人々からの非難です。

人々のための愛の行為が、その人々からの反発を生んでしまう。そんな皮肉なすれ違いは、みずがめ座に深い苦悩を与えるようです。

この苦悩に関して、次の作品をご覧ください。

マネはこの作品を描く前に、このように語っています。

ぼくはつねに十字架のキリストを描きたいという野心を持っていた。なんというシンボルだろう!人々が何世紀かかって探しても、同じようなものは見つからないに違いない。ミネルヴァはすばらしい。ヴィーナスもすばらしい。しかし、英雄的なイメージも愛のイメージも、苦悩のイメージには決してかなわない。それこそが人間の本質だからだ。

この絵を見ると、まるで聖を感じないキリストからも、キリストには目線を向けていない天使からも、死が何かを癒し、救いになるというようなメッセージはまったく感じられず、復活の気配すら漂っていません。
ポジティブな事柄が全く欠如しているこの作品こそが、マネの苦悩を表わしているように思えます。

このように、理解されないという苦悩はいつも彼に付きまとっていましたが、それでも変わらず本質を見つめ表現し続ける自身の姿勢について、マネは自分の個展カタログに寄せた文章の中でいくぶん皮肉めいた口調で次のように語っています。

こんにち芸術家は、『完璧な作品を見に来てください』というのではなく、『率直な作品を見に来てください』というのです。その率直さが原因で、作品のすべてに抗議に似た性格が与えられていますが、画家は印象を表現することしか考えなかったのです。

マネ氏は抗議しようとしたことはありませんでした。彼に抗議したのは、みなさんのほうだったのです。なぜなら、絵画の表現形式や手法や見方に、伝統的な教育が存在するからです。このような原則によって教育を行った人々は、それ以外の人を許しません。彼らはそこから性急な不寛容を引き出しています。自分たちのやり方以外には何の価値も認めず、彼らは批評家を気取っているばかりか、敵対者、しかも積極的な敵対者と見せかけているのです。

マネ氏はつねにあるがままの才能を認め、古い絵画を打倒することも、新しい絵画を創造することも主張しませんでした。氏はただたんに自分自身であろうとし、他人にはなろうとしなかっただけなのです。」

そして、マネが一個人としては深い苦悩を感じながらも自らの表現をやめないのは、マネの持つ全体性、個人の枠組みを超えたトランスサタニアン天王星の持つ全体意識に支えられていることが理由ではないでしょうか。

個人天体に支配される星座の枠組みの中では、たとえば辛いと思ったら芸術の世界からは身を引いてしまうというように、自分の内的な世界が外的な世界に向けて発露されていきます。
しかし、トランスサタニアン天体の枠組みではその発露のベクトルは少し長くなり、人智を超えた外的な世界の意志が個人の内的な世界にあるフィルターを通って、また外的な世界へと向かっていきます。

みずがめ座が目指す人類愛の実践は天王星という全体意識のエネルギーに支えられているために、いかにマネ個人の心中は苦悩に満ちていようと、その人類愛の行為を、マネにとっては絵画における本質的な芸術表現を止めることはないのです。

個人天体の立場から見ると、辛いのにやめられないというのはなかなか大変そうですが、そこにはみずがめ座に特有の救いがあって、それはみずがめ座が知り語る本質は万物の普遍性という領域にまで達しているので、時間や空間を超えていつかどこかで必ず誰かに認められるということです。

しかも認められるときには、いっときのことでもなく、ひとところだけのことでもない、ユニバーサルな認められ方になります。

マネも今では「近代絵画の創始者」と称されていますし、当時もっともスキャンダラスと言われたヴィクトリーヌのヌードを描いた作品は、マネの死後約25年の時を経て、ルーブル美術館の中で、マネを批判していた守旧派が傑作と称した作品の隣に展示されることになりました。

認められるまでのタイムラグということについても、マネがこのようなことを語っています。

何度か見ているうちに、はじめは驚いたもの、さらに言えば不快に思ったものにもなじんでくることもあるからです。少しずつ理解し、認めるようになるのです。

占星術的には、みずがめ座が知り語る本質はトランスサタニアンのより大きな視野からもたらされるので、個人天体の視野で生きている人々の間で理解されるまでには時間がかかるものの、しかるべきタイミングが来たときには広い普遍性を持って受け入れられていくと解釈できるでしょう。

みずがめ座が知り語るものごとの本質と、それゆえの称賛と非難。その非難は深い苦悩をもたらすものの、天王星に支えられた人類愛の行為は時代や空間を超えて普遍性を持っていく。
マネの絵画からは、このようなみずがめ座にまつわるストーリーをはっきりと感じることができるのではないでしょうか。

この記事を書いたひと

丸尾陽介
会社経営のかたわら、2015年より心理占星術を学んでいます。
2016年には国内外で延べ70館以上をまわった趣味の美術館めぐりがきっかけでこの記事を書いています。
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丸尾陽介

会社経営のかたわら、2015年より心理占星術を学んでいます。 2016年には国内外で延べ70館以上をまわった趣味の美術館めぐりがきっかけでこの記事を書いています。