ロートレックの絵画に見る、娼婦に恋する男性心理の射手座性

アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ
(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa[1]、1864年11月24日 – 1901年9月9日)は、フランスの画家。一般的に姓は「トゥールーズ=ロートレック」、または単に「ロートレック」と呼ばれることが多い。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

娼婦に恋する男性心理とありますが、「娼婦」という言葉自体にすでに否定的なイメージを持たれる方も少なくないかもしれません。

しかし、古くから娼婦と客の男性との恋物語は創作の各ジャンルで繰り返し使われているモチーフでもあります。

このコラムでは、絵画を題材として娼婦に恋する男性の心理、そしてその心理に私が感じる射手座性について話してみたいと思います。

まずはこのエドガー・ドガの作品をご覧ください。

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この女性は娼婦ではありませんが、女性を背中から見た構図で描き、顔も見えないことから、女性の個性や意思は作品の主題とされていないことがわかります。
さらに女性自身は後ろを向いていることで、どの瞬間を切り取られているのかさえもわからず、完全に主体性を失った「客体」として描かれています。

 

それに対してアンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックの作品は、ドガのものと同じように娼婦を背中側から描き、ときには自分の意志とは関係なく売り買いされる者としての商品性や客体性が読み取れますが、それと同時に作品の右側には鏡に映された顔も含めた身体の前面が描かれています。

 

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娼婦はたしかに男性の(ときには女性の)ひとときの快楽のために買われていくオブジェクト的存在ではあるものの、正面向きの姿を同時に描いたことで、この女性はただの商品ではなく、自我も個性もプライドもあるのだということをロートレックは表現しようとしたのでしょう。

 

娼婦を買う男性一般の心理でいえば、性欲のはけ口であるということ以外に娼婦自身の個性や人間性に興味を持つことはあまりありません。

 

しかし、客の男性が娼婦に対して恋愛感情を持つまでにいたるには、彼女たちの商品としての存在を超えて、「たとえ彼女は身体を売っているのだとしても、この僕だけが彼女の内なる世界にある穢れなき魂の存在をわかっている」という、娼婦の持つ内なる本質への強い関心を欠かすことはできないでしょう。

 

娼婦の内面に強く惹かれる男性の心理には2つの要素があり、そこに射手座性の特徴的な表れがあると私は考えています。

 

ひとつは、娼婦の内側に息づく美しさを直感的に見出す彼ら自身の純粋性からくるもの。
もうひとつは、事実はどうあれ、娼婦という日の当たらない存在に穢れなき魂を見出したいという彼らの期待や願望からくるもの。

 

また、他のどの男性も見ようとしない、一般的には軽蔑の対象でさえある娼婦の内面にある美しさを自然と見出す直観力や、ステレオタイプなものの見方にはしばられないオープンマインドさも射手座の特徴です。

 

後者の願望と射手座性の関連はじっくりとみていきましょう。

 

射手座の特徴のもう一つとして、精神的な高みを目指すということがあります。

火のエレメントには共通して高みを目指すという特徴をみることができますが、牡羊座の場合は、その高みがどれほどのところまで到達できるかということよりも衝動に突き動かされるほうが大切になりますし、獅子座の場合には、支配星の太陽のように自身が世界の中心になるべく、世俗の中で理解されるための洗練された高みを目指す必要があります。

 

それに対して射手座にとっての高みとは、しばしば高級な学問がそうであるように現実社会で役に立ったり理解されたりすることは必ずしも必要なく、純粋に精神が到達し得る一番の高みを目指すという高尚さが重要となります。

 

しかし、目指す高みが高ければ高いほど挫折を味わうことが多いというのは世の常であり、射手座性を持って生きるということは、そのチャレンジ精神ゆえに挫折とはよく付き合いのある人生を歩むこととも言えるでしょう。

 

この挫折感が先ほどの2つ目の男性心理の要素と関係していると考えられます。
男性はしばしば自分が関心を持った女性に幻想を抱き理想化したがることがありますが、娼婦に恋する男性の場合で言えば、真実はどうであれ「たとえ身体を売っている彼女でも、魂の清らかさは決して失っていない」と思いたがるのではないでしょうか。

 

これら男性の願望とは、実際は挫折感を含めた射手座的高尚さを目指したい自己の投影と自己愛の表れであって

 

「たとえ身体を売っている彼女でも、魂の清らかさは決して失っていない」

 

という自身で作り上げた娼婦の虚像に、

 

「自分には目指す理想があるが、その高みには到達できていない。それでも高みを目指すことさえやめてしまって現状に安住しているやつらとオレは違う。オレは自分の魂までは売っていない!」

 

という心理的背景を重ねていると考えられます。

 

つまり、娼婦という日の当たらない世界に生きる女性こそ清らかな魂の持ち主であるという像を作り上げることで、男たちは挫折によって心ならずも自分のいるべき場所に到達できていない現状と、それでも高みを目指そうとする射手座的な自我、美意識や自己愛を満たすことができるということなのでしょう。

 

上で娼婦を描いた作品を取り上げたロートレックは射手座の太陽を持っています。

 

彼は幼少期のアクシデントと遺伝的な疾患から両足の成長がある時期で止まってしまい、150センチほどの身長と不自由な足を持ち、父親からも障害者として疎まれる人生を送りました。

 

そんな彼が作品のモチーフとしてよく用いたのが、この娼婦たちです。

 

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ここで紹介している2作品以外にも、ロートレック作品には娼婦を描いたものがたくさんありますが、そのどれにも冷笑的なニュアンスは感じられず、むしろあたたかな目で見守り描かれているように私には感じられます。

 

ロートレックは、当時もっともいかがわしいとされていた娼婦たちの人間性にスポットを当て、ポスターを芸術の域にまで高めました。
そのような素晴らしい才能を持ちながらも、治ることのない障害を抱えた自分自身を持て余し、娼婦たちに癒しを求め、彼女たちへの共感を通じて自身の所属感を育もうとしました。

 

見過ごされ、または無視されていた娼婦の純粋性やプライドを見事に描いたロートレック。

射手座のロートレックにおける娼婦に恋する男性心理とは、さらなる高みを目指すための癒しと安らぎ、自己愛の回復といったものなのかもしれません。

 

 

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