第IX惑星を考える

冥王星が準惑星に降格して10年が経った2016年の新春。理論上のPlanet Nineの間接証拠がある、とカリフォルニア工科大学が発表した。冥王星のことだ、きっと「くっそー、先を越された!」と悔しがっていたに違いない。

その頃、日本ではベッキーの「ありがとう文春(笑)」のLINEが文春で暴露され、直前の会見キャラとのあまりの違いに、お茶の間が度肝を抜かれていた。本題から逸れるが、ベッキーの実家が自宅から徒歩圏内にあるため、地元ではベッキーの話題は自然にタブーとなった。これは私にとって、ルー大柴さんと高田純次さんに続く、人生で3回目の地元愛となった。

話を戻して、それからの1年間。私達は、世間にどれほど驚いたことだろう。心臓がフサフサの毛で覆われるほど、第9惑星の話題がすっかり霞むほど(冥王星の逆襲だったりして!)、ついには驚くこと自体に疲れるほど、驚き続けた。振り返れば、驚くことに鍛えられた1年だった。

年の瀬にあたり、占星術の素人なので、自分の専門である数学という視点で、この第IX惑星のニュースを改めて考えてみたい。大学では驚きの発見だっただろうが、世界の数学者には「論理を説明するのに必要である」と「存在する」は同義であり、全く驚かない。そんなことに時間を使うなんて!とさえ思ってしまう。そして残りのもう1つを探せ!と葉っぱをかけたくなる。

実は、天文学などが所属する自然科学にとって数学は、冥王星のような存在だ。理系の中で数学は除け者なのである。なぜなら論理から生まれる学問であって、観測から作られる自然科学とは根本的に異なるからだ。結果、ノーベル賞から外され、他学部からも「実験も卒業研究もないんだよね」と冷たく区切られ、自分たちの気分は太陽なのに、世間での扱いは準惑星や衛星なのである。

ずっと前だが、おばあさん占星術師が、かつて私にこう説明してくれた。木火土金水にはね、それぞれに表と裏があるの。でもね、太陽と月は裏がないのよ。だから5×2+2で12なの。これが四季や24時間や12ヶ月といった12進数の占いの基本よ。でも、私の占いにおける数字は、10進数という考え方も大事でね、太陽と月の「裏」に相当する2年を、ゼロとして存在させ、その2年を天中殺と言って「冬眠するように厳しい時をじっと待つ時期」と観るの。

80歳を優に超える彼女は、その後も色々と話してくれたのだが、残念ながら私の頭には残らなかった。要するに、12進法と10進法を統合して占っていて、12と10の差である2が「要注意の2年間」だということと、「ない」けども「ゼロとして存在させる」という数学に似た考え方が、占星術でもあるんだということが、分かった。

そう。科学では「ゼロ」は「ない」と同義だけれど、数学では違うので、「ゼロ=原点」で「ない=不存在」と表す。例えば、「リンゴ何個ある?」と質問されて「ゼロ個」と答えれば、それは「ない」を意味する。しかし「電話番号ある?」と質問されて、「ゼロなんだ」と答えれば、それは「電話番号が00-0000-0000」ではなく、「NTTと契約してない」と受け取らねばならない。言葉(特に日本語)は敢えて厳密にせず曖昧にしているのかもしれない。

もう少し脱線が許されるのならば、複素数についても述べさせてほしい。複素数とは虚数のことで、数学には普通だが科学では断固拒否の考え方だ。例えば、2乗して−9になる数が虚数だが、不可視なため観測から生まれる自然科学には否定される。不可視と不存在の扱いを巡って、理系オタクは熾烈な戦いを繰り広げてしまう。

さすがに話を星に戻そう。占星術が生まれた頃の古代人は、海王星が見つけられなくても、冥王星が準惑星で除け者にされても、planet nineがあってもなくても、そんなのお構いなしに観測から共通化される人々の性格を12に分類した。そして季節とも連動させ、今ある12星座に至ったのだと推察する。寒くて夏のない三季のイギリスでも、占いでは四季を採用したのだから、12分類には理由があるはずだ。

当時の木星を支配星とする星座は、海王星が未発見だったため射手座と魚座だそうだが、支配元が同じでも、射手座と魚座を一緒にはしなかった古代人。さすがだ。実際に、魚座の私や周囲の魚座達は、射手座に見間違えられたことは、今まで一度もない。祖母と母へ習いに来る長唄の生徒さん達は、年齢も性別もレベルも目的も全然違うが、水瓶座と魚座が多いという共通点がある。それ以外の星座の方もいらっしゃるのだが(新人さんは12星座がまんべんなく揃う)、長続きしないのだ。射手座と魚座の違いは、こんな所からも実証できる。

ならば、である。やはり、金星や水星を象徴する星座は各々1つずつであるはずで、まだ2つを探す冒険が残っていると思えばこそ、新年の第9惑星のニュースは楽しい味がする。虚数のように不可視かもしれないし、冥王星や月のように準惑星や衛星かもしれないし、太陽に近すぎて眩しすぎて見えないのかもしれないし…と想像は無限に膨らんでいく。

ただ惑星さん達には過干渉と言われるかもしれない。あんたの屁理屈のために、勝手に作ったり消したり分類しないでよ、とね。LEDが普及している現代の夜空は空が明るく、東京では土星や火星が不可視の海王星と同等だ。でも本来の夜空は真っ暗で、数えきれないほどの星が一斉に姿を見せている。昔、当時のソビエトを訪れた母が「むしろ恐かった」と表現していたっけ。

年の瀬にあたり、そろそろ「今度は何に驚くのだろうか?」と身構えるのは終わりにし、多すぎた2016年のニュースに片を付け、第IX惑星もSTAP細胞のように「消えた話題」へ仕舞い、新年に焦点を当て(来年は過去と今年からできるので少々恐い気もするのだが)気持ちを新たに2017年を迎えたい。