2020 牡羊座の言葉 エーリッヒ・フロム

心理占星術家・nicoが選んだ今月の言葉は….



最良の状態(well-biing)とは、人間の本性と一致しているということである。しかし人は自分の意志なしにこの世界に投げ込まれ、また、彼の意志なしに世界から取り去られる。人間はその生を生きなければならない。生によって生きられるのではない。そしてこの分離した存在として、自分を意識することが、彼を耐えがたく孤独に、よるべなく無力に感じさせる。いかにして我々は、分離の経験が作りだすこの悩みや閉じ込めや、恥というものを克服することができるか、いかにして我々は、我々内部において、また我々と仲間の人々と、また自然と合一を見出すことができるだろうか。

(中略)

人間が生まれる前に存在していた統一の状態への退行によって、分離性を克服し、統一を見出すことであり、また十分に生まれることであり、自分の自覚、自分の理性、自分の愛する能力を自分自身の自己中心的な関与を超えて新しい調和、世界との新しい合一に到達する点まで発展させることである。

— 著書「禅と精神分析」より

 

今月の言葉

エーリッヒ・フロム

1900年3月23日 ドイツ帝国 フランクフルト・アム・マイン生まれ。

牡羊座に太陽、水星を持つ。ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者である。ユダヤ系。マルクス主義とジークムント・フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けた。新フロイト派、フロイト左派とされる。

 

 

 新しいサイクルのスタートである。草木は新しい芽をのびのびと伸ばし、花々は気ままにその生を楽しむ。しかし、彼らは生き残ったものたちだ。一方で長い冬に耐え切れず、命を終えたものも存在する。芽をつけられなかった、花を咲かせられなかった枝は、誰の目にとまらず朽ちていく。目に見える自然の現象は鮮やかであっても、背後で繰り広げられる生存活動は厳しい。

 占星術の本によると、牡羊座はとても単純なサインのように描写されていることが多い。せっかちでがむしゃらで人のことはお構いなく、ガツガツと自分の獲得に勤しみ、その存在はあつかましい。

 本当にそうなのだろうか? たとえそうだったとしたら、その切迫した生き様の中に何か大きな理由を秘めているのではないだろうか。

 成長プロセスにいる牡羊座はフロムの書く不安――この分離した存在として、自分を意識することが、彼を耐えがたく孤独に、よるべなく無力に感じさせる――をそのまま生きている。

 誰だってそうだ。自己を見出すプロセスの始まりは誰だってよるべない。また新しい体験を前にすれば、誰だって赤子のように無力だ。これから何が起こるのだろう、一体、この世界に何が待ち受けているのだろう。

 私たちはこの一ヶ月、誰でも「牡羊座的体験」というのをしていかなければならない。

 

 その解決策の一つとしてフロムはこう書いている。

 

 人間が生まれる前に存在していた統一の状態への退行によって、分離性を克服し、統一を見出すことであり…

 

 牡羊座の前には、必ず水エレメント・魚座が存在している。私たちは孤独のようで孤独ではなかった。花は孤独に咲いているのではなく、風に触れ、枝や幹や根を持ち、大地に根差し、そして水脈や熱によって守られている。そこには自分の存在を生み出した「全体」があった。

 または、こういう考えもできる。新しい生の手前には、柔軟サイン・魚座の知性としての先人たちの知恵、または犠牲がある。たとえ因果関係がなくても、私のこの先の生があるとしたら、たとえば肺炎に最初に警鐘を鳴らした医師・李文亮の功績によるものかもしれないとも考えられる(または心愛さんしかり、森友問題の自殺職員しかり…)。

 

 墓碑銘に添えてほしいのは、この一句だ。

 彼は生きとし生ける者のために話をした。

 

 連日、コロナウイルスによる犠牲者が後を絶たない。彼らの死を無駄にすることなく生きていく責任が私たちにはある。

 牡羊座は、意識的であれ無意識的であれ、そういった死と隣り合わせの生を生きている。だから、自殺者が多い(ゴッホしかり)のも納得できる。生きるということは、なんと責任のあることなのだろう。

 

 フロムは、生きていくうえでもう一つの提案をしている。

 

 また十分に生まれることであり

 自分自身を誕生させることである

 そして、可能性としての自分を実現することである

 

 先の見えない時代の中で、私たちは生きることのできなかった者のために、十分に生まれることの責任を任されている。それならば、よりよく生きることを目指す責任もあるのではないか?

 牡羊座の季節、私たちは不安定な時代の中で「新たに生きる」ことを発見していかなけれならないのだ。