美意識と調和へ投じる知の一石、天秤座の画家ミレー

天秤座で12サインは後半へと入り、前半部分での個人の成長から、今度は社会性を育むことにテーマが移ります。

言わば、個人のために個人があったところから、社会のためにこれまでに培われてきた個性があるというように、主語のスケールをひとつ大きくする必要があると言えるでしょう。

 

獅子座から始まった相互関係の学びについても、個性の発揮への集中や、ある集団の中での役割の全うを超えて、より大きな単位である社会で多様な価値観と交わる技術や、相互関係全体の利益にも意識を向ける段階に入りました。

 

天秤座では、風のエレメントが持つ客観性で世界を俯瞰し、牡牛座で磨かれた支配星の金星が象徴する価値観を、活動サインらしく自分から発信していくことによって、自分、目の前の人との対人関係、それを含む社会にも調和やバランスをもたらすことが目標となります。

社会意識や調和と、客観性や自分の価値観、主体性とは相反することのように聞こえますが、多くの場合、対人関係も社会も何かしらの偏りを持っているために、そこから生まれる空気や慣習に迎合するだけではその偏りがさらに大きく、醜いものとなってしまいます。

天秤座が望むバランスとは、対人関係や社会の傾きを知性によって見抜き、その傾きに対して、自分に固有な美意識から生まれる発想を軽やかに交わらせることによってより美しい公平さをもたらす、非予定調和的でアクティブなものです。

 

それゆえ天秤座の表現世界は、作品自体が磨かれた美的センスによって均整が取れたものになり、その世界観は、偏りを持つ人間関係や社会に一石を投じ、より高い次元の調和をもたらすものになるのです。

 

今回は天秤座の太陽を持つジャン・フランソワ・ミレーの作品と生涯を題材に、天秤座が中心に据える美意識と、調和へ投じる知の一石ということについてお話してみたいと思います。

まずはミレーの作品を何点か見て見ましょう。

 

ミレーと言えば「農民画家」と言われる通り、農村に生きる人々の姿を、美化することもなければ偏見に満ちた目線で見ることもなく、現実の姿で描いたこれらの作品がよく知られています。

ミレー自身もフランス北部ノルマンディー地方の農家の出身で、長男でもあったために、学校を卒業したのちは両親とともに畑で働いていました。

しかし、独学であったにもかかわらず彼の絵の才能は徐々に明らかになり、父を亡くしたばかりの一家にとっては働き手を失う痛手ではありましたが、ミレーが19歳のときには近くの町の画塾に通い始め、22歳になるとその町から数年間の奨学金を得て、パリでの本格的な絵画修行に向かいます。

高名な歴史画家のもとでの修業はあまりに慣習的な技術の練習に偏っていたことと、その画家とのトラブルもあり、ミレーは再び独立独歩の道を歩むこととなりますが、パリに残ったまま画を描き続けた彼は、1840年、26歳のときに初めて挑戦したサロンで入選を果たします。

その当時の作品がこちらです。

この時代のミレー作品の主題となったのは、主にこれら肖像画と、神話をモチーフとした”裸体画”、本人がサインをしなかったため現在その存在はほとんど確認できませんが、古画や有名作品の模作でした。

当時のフランスはいくたびかの革命と産業の発展によって、絵画を買うほどに裕福な一般市民階級も生まれていたものの、いまだ彼らのテイストは伝統的、権威主義的なものであり、日々のパンにも困るほどであったミレーは、生活のために彼らの好みのものを描くほかはありませんでした。

ミレーはこの頃、修業時代の同級生とこんな会話を交わしています。

「なにを描こうか」
ミレーはマロルに問いかける。
「草を刈ったり、乾かしたりする人々を描いたらどうだろう。良いモチーフだと思うのだが。」
「そんな絵は売れないよ。(中略)ブーシェとかワトーとかの装飾画や裸体画が受けるのだよ。その模作を描くしかないな。」

ミレーの生涯」アルフレッド・サンスィエ著より

自分の美意識の中ではすでに農村に生きる人々の美を見出していたミレーは、それでも友人の言葉や注文に応じて肖像画や裸体画を描いていましたが、そんな彼に2つのショッキングな出来事が起こります。

ひとつは、上でご紹介した男性の肖像画に関することで、これはミレーが奨学金を受けていた町からの依頼でその前市長を描いたものですが、「誉れ高い前市長の相貌とはかけ離れている」という理由で、その代金が約束通り支払われないということがありました。

もうひとつは、画廊の窓からミレーの作品を眺めている二人組を見かけたとき、その二人組はこんなやり取りをしていました。

一人が言う。
「この絵の画家を知ってる?」
もう一人が答える。
「うん、裸の女しか描かないミレーという画家だ」

前出「ミレーの生涯」アルフレッド・サンスィエ著より

自分の本意ではない作品を描いてこんな扱いを受けなければならないのかというミレーの自尊心の悲鳴が聞こえてきそうですが、この少し後に、彼の作品の代理人で親友でもあったサンスィエ氏(引用本の著者のサンスィエ氏と同人物)への手紙にはこんな言葉を書き綴っています。

「これらの題名からもわかるように、女の裸体画も神話画もない。人から言われたわけではなく、自分からやめたのだ。(中略)たとえ私が全能の芸術家であったとしても、自然や風景や人物像から直接受けた印象の結果以外は絶対に描くまい。」

前出「ミレーの生涯」アルフレッド・サンスィエ著より

 

ミレー自身、のちに自分の作品リストを頼まれたときに、次にご紹介する作品以降のものしかリストアップしなかったように、他者のニーズに合わせるだけではなく、自身の美意識を中心に据え、それによって自分や他者、社会にもより美しい調和と歓びをもたらす、ミレー本来の天秤座的な才能はここから発揮されていきます。

「裸体画はやめた」というミレーの宣言通り、がらりと主題を変えたこの作品は、1848年のサロンに出品され、高い評価を受けます。

穀物に混じる石や殻などをふるう人の重心が定まった姿が、湯気が立ち上りそうなくらいに力強く描かれていて、それと同時に、こういった仕事は古くから数限りなく繰り返されてきた農家の日常であることの平静さも感じられます。

この肉体性―都市型の頭脳労働と比べれば野卑なものとされていた―と、肉体労働の厳しさを受け入れ日々の祈りのように繰り返す精神の高尚さ、これらの相反する要素が絶妙に同居し美しさを奏でるのが、ここからのミレー作品の天秤座的特徴のひとつです。

前出のサンスィエ氏も、ミレーの表現について、次のように述べています。

 

 

 

 

田園のこだま、牧歌、苦しい労働、不安、悲惨さ、平穏さ、大地に捧げた人の情熱、こうしたものをすべて、彼は絵にすることを試みた。そして「野卑なるものを至上のものに役立たせ」、人生の平凡な一日から高貴で偉大なスペクタクルを現出させ得るということを、いつの日か都会人は思い知るのである。

前出「ミレーの生涯」アルフレッド・サンスィエ著より

この48年のサロンは直前に起こった革命の影響で無審査だったため賞を受けることはありませんでしたが、この作品は革命後の臨時政府でルーヴル美術館の運営など美術行政を担当していた内務大臣のロラン氏が個人的に購入し、ミレーは農民画家としての第一歩を踏み出しました。

翌49年には大規模な政治的暴動やコレラの大流行がパリを襲ったこともあって、ミレーはロラン氏から得た代金を頼りに首都を離れ、60キロ南東にあるバルビゾンという自然豊かな農村に移り住みます。

元々が農家の出身であり、「汝、額に汗してパンを得よ」という創世記の言葉に忠実なキリスト教徒であったミレーは、再びその環境に身を置くことによって、自分の本来的な価値観を如何なく作品内に発揮していきます。

次の、有名な「種をまく人」は、バルビゾンに移って間もない頃の作品です。

 

 

人間が大地から実りを得る根源的な営みがダイナミックに、そして画面右上の牛に当たる日の光との対比によって厳かに描かれています。

農夫の顔はさして細かく描かれていないことからは、特定の誰かの個性というより、人間という存在の普遍性に関心が向いていることが伺えます。

この作品も発表直後からサロンの一般の観客たちの人気を集めましたが、不安定な政治状況下にあったパリでは、ある批評家はこの作品が農民や労働者階級が種ではなくダイナマイトをまく革命思想を表わしたものだと言い、ある者は庶民の権利拡大を図る共和制擁護の意図があるなどと騒ぎ立てました。

もちろんミレーにそんな意図はあるはずもなく、作品からはむしろ、現れては消えゆき、そのたびに人の生活を破壊する政治思想なんかに傾倒せず、人間の本来的な営みに立ち返ればいいじゃないかという社会に対する主張が聞こえてくるように思えます。

ミレーは自分のことを、そんな重要人物だとも、革命的だとも思っていなかった。農民一揆の画家になることは、彼には不可能だった。どんなに破壊的な思想も、彼の心を乱すことはなかった。(中略)
『汝の額に汗して生きよ―昔からよく言われている、不変の格言である。人間にとって必要なのは、自らの仕事を進歩させるべく努力することであり、即ちそれは、自らの才能と仕事への良心によって、仲間に抜きん出た優れた職業人になるよう不断の研鑽を積むことに他ならない。』

前出「ミレーの生涯」アルフレッド・サンスィエ著より

 

ミレーの農民画は社会階層を問わず認められ始めていましたが、国内の混乱の影響もあってなかなか経済的な成功には結びつかず、また彼にはすでに7人もの子供がいたため、自身の追求する芸術と実生活との間には、かなり難しいかじ取りを迫られていたようです。

「私は屈服を強いられ、官展風の美術に修整させられると思われている。とんでもない。私は農民として生まれ、農民として死ぬだろう。(中略)私が見た通り、物語らなければならない。だから、木靴一足分たりとも後ずさりすることなく、大地にとどまるつもりだ。」

「私は顧客に渡すデッサンを描いている。君がこの絵を受け取ったら直ちに、代金を送っていただきたい。と言うのも、子供たちに暖を取らせることもできないのだから。月末には状態はもっと悪化するだろう!」

前出「ミレーの生涯」アルフレッド・サンスィエ著より

 

この間、旅費が払えず、苦労することを知りながら自分を送り出してくれた祖母と母の死にも立ち会うことがかなわないなど、かなりの苦難がありましたが、上の言葉通り、自分の見たままに物語る作品を描き、金銭的に相応の報酬と画家仲間や社会からの称賛をも得たのが、次の「落穂拾い」です。

 

 

「種をまく人」などと比べると美的にもより磨かれた印象のこの作品は、まぎれもないミレーの代表作であり、地平線まで広がるような刈り入れ後の風景と高く積み上げられた黄金色の藁は、人々の努力と太陽や大地の恵みが合わさって実った農村の豊かな秋を感じさせます。

ただ、落穂拾いというのは、生産農家が収穫物の拾い残しをなくすためにしているのではなく、より貧しい農婦への施しとして、自分の土地の刈り残しを彼女たちに拾わせているものです。

時代はナポレオン3世の治世下になり、裕福な都市生活者は休日を田舎で過ごすようになるなど、昔ながらの自然や農村の美しさの見直しが進み、文学などでも理想化された農民たちの物語が人気になっていました。

 

その一方で、不作や高い税金に困窮した農民の都市への流入で、1830年からの20年間でパリ市の人口が2倍になるなど、農村の疲弊と都市のスラム化という問題も起きていました。

この作品でも、大地の豊かな実りは心躍るようなものであり、広がる田園風景は美しいものですが、現実には農村にさえ貧富の差もあれば、生きるために腰を折ってひとつひとつ落穂を拾うという厳しい生活もあるという実際の姿が描かれています。

それでも作品全体としては、貧しい農婦が自分の運命に不満を露わにし、見る者に苦い思いをさせるものでは全くなく、収穫後の風景と彼女たちの泰然とした佇まいは美しささえ感じさせ、リアリティと審美性が高いレベルで釣り合いが取れているように見えます。

 

画家仲間もこぞってこの作品を称賛し、少し前までは「30フランでもいいから画を売ってきてほしい」とサンスィエ氏に懇願していたミレーに対し、ある収集家は2,000フランでの購入を申し出ました。(当時の1フランは、現在の日本円でおおよそ500円~1000円ほどと推定される)

サロンの一般観衆にも熱狂を巻き起こし、自分の目指す芸術、家族、仲間、顧客、そして社会と、一枚の絵画で全方位的な満足をもたらすバランスの妙味は、天秤座ならでは洗練されたものと言えるかもしれません。

 

そして、私が個人的に、ミレーの価値観が一番強く表れているのではないかと感じている作品が、この「晩鐘」です。

 

バルビゾンに移って以来の作品群と同じく、農村の営みの肉体性、それと同居する高貴さ、深い信仰心、自然への敬意が十二分に表現されていますが、この画の一番の特徴は女性へのフォーカスだと私は考えています。

まず、作品内のオブジェクトを見てみると、向かって左の男性側には鍬が一本立っているだけですが、女性側にはその日の収穫物を入れたバスケットや台車、背景には教会があります。

男性の痩身さと重心の高さと比較しても女性の大地に根差したような安定感は際立っていて、太陽の光は女性の前面にだけ当てられていることからも、彼女がこの家庭の中心人物なのではないかという印象を持ちます。

ミレーはバルビゾンの農家の女性のあり方に、とても感動したといいます。

 

ミレーがバルビゾンで見た農民の生活は質素で厳しいものであり、とくに農家の女性のたくましさ、忍耐強さは彼の心を動かした。

「NHK オルセー美術館 1」 高階秀爾監修より

 

当時のフランス社会は、既婚の女性はどれだけ働こうともその稼ぎはすべて夫のものになっていたほど男尊女卑的なもので、農家の夫婦を題材とし、その妻のほうにスポットを当てた作品などは、それまでに存在するはずもありませんでした。

しかしミレーにとっては、自分が家を出て以来一家を守った母や祖母、売れない時代から献身的に支えてくれた妻、そして貧しくも尊い農家の女性の存在は身に染みており、女性を低く見る理由などまるでありません。

 

一見すると構成がアンバランスに見えるこの作品は、農村において男性と変わらぬ労働力であり、ミレーの敬意の対象でもあった女性により大きな存在感を持たせることで、男性優位に偏った当時の社会に「女性の働きも正当に評価をするべきだ」という一石を投じたものだったのではないかと私は考えています。

前出のサンスィエ氏も、画家ミレーの人間性について、次のように語っています。

 

「ミレーを理解する者は、こう人に言い聞かせるに違いない。この画家は人生を慎ましき人々に捧げている。彼は見捨てられた人々の真の偉大さを讃える詩人であり、彼らを勇気づけ、慰めた善き人間である、と」(サンスィエ氏)

前出「ミレーの生涯」アルフレッド・サンスィエ著より

 

ミレーの名声が最高潮に達したのは、1867年のパリ万博において「落穂拾い」や「晩鐘」などの展示が第一等賞牌を受け、翌68年にレジオン・ドヌール勲章を受章した時でした。

特に勲章の授章式では、ミレーの名前が読み上げられるや否や会場内からは極めて異例の熱烈な拍手喝采が起きるなど、彼の作品が美術界にとどまらず当時の社会全般におよぼした影響の大きさが伺えます。

勲章の受賞から数年でミレーは亡くなってしまいますが、数々のオマージュ作品を残したゴッホなど後世の画家に対する影響は枚挙にいとまがなく、19世紀以降の画家では最も数多くの伝記が書かれているなど、彼の作品と人物像は現在に至るまで美術関係者や愛好家の注目の的となり続けています。

 

日本でも彼の農村を見る目や想いは共感を呼び、「種をまく人」などのコレクションを誇る山梨県立美術館は、最盛期には年間50万人近くを集客するなど、“ミレーの美術館”として広く親しまれています。

 

社会のニーズへの偏りを見つけ出し、自分の美意識を中心に据えて描き出した、農村に生きる現実の厳しさと人間の高貴さ。

その相反する要素が美しく同居する作品群と、それによって自分自身、暮らし、仲間、顧客、社会など、かかわる全ての人に喜びや調和をもたらす知性とバランスの妙味。

 

ミレーの作品と生き方からは、他者偏重から自分の価値観を取り戻す天秤座の成長過程と、そこから真価を発揮する調和への才能が美しく表れているのではないでしょうか。