2022 蟹座の言葉 西村賢太 ┃チンケな小世界の探究、その先に広がる普遍的な世界

心理占星術家nicoが選んだ今月の言葉は…

 

  どうにも、私小説しか肌に合わないのである。  

 そんな私であれば、自分で書くとなれば当然そのジャンルに特化せざるを得ないし、戦前の昔より、「私小説」そのものに投げつけられている批判を未だ持ちだされもするにつけ、意地でもこのスタイルにしがみつき、これ一本で押し通してゆく決意を新たにさせられてしまう。

 一作ごとに、実験だか冒険だかを試み、それを読者に提供することこそが作家の本懐、と心得るのは立派である。が、常に同一の主人公しか使えぬ、小説としては、本来かなり致命的な制約を受けた中でひたすらに足元のみを掘り下げると云う、まことチンケな小世界の探究も、しかし一切の逃げ場がないぶん、小説の作法としては案外にスリリングな実験と冒険の実践と云った面もないではない。  

 もっとも、そうした手前味噌はともかく、書き始めた頃には、〝単なる過去の私小説の型を真似ただけ〟と揶揄された拙作も、それでも同じことばかり繰り返しているうちには、僅かながらに違う見方もされるようになってきた。

随筆集「私小説書きの独言」より

 

双子座の言葉

西村 賢太

1967年712日東京生まれ。太陽、水星を蟹座にもつ。

中学卒業後、アルバイトで生計を立てながら小説を執筆07年『暗渠の宿』で野間文芸新人賞を、11年に「苦役列車」で芥川賞を受賞。日雇い労働者19歳の孤独と青春を描き、後に映画化された。家族での夜逃げや暴力沙汰での逮捕、同居女性への暴言や破局の顛末も包み隠さず描いた作品群は「破滅型私小説」と称された。2022年2月5日心疾患で死去。享年54歳。

 

 

 今年の月に西村賢太が亡くなったというニュースをネットで目にしたとき、少なからず動揺したことを覚えている。というか、亡くなってはじめて、西村賢太の仕事の意味について考えることになった。コンプライアンス意識が高まっている風潮の中、彼は真逆の世界――暴力や性差別といった――を描き続けたが、先日行われたお別れ会の際、作家の島田正彦の「西村賢太が示した生き方の研究は今後、未来に向かって非常に有効に活用されうる」という発言には大いに納得がいった。 

 

 なるほど、確かにこれだけ命を燃やして生きた人物なのだ。西村賢太の生き方から、太陽活動、また蟹座が求めるものが見えてくるのかもしれない。母性的、共感的といった星占いの薄っぺらな表現とは違う、もっと「未来に向かって有効に活用できる」意味を見出せるかもしれない。

 

 最近、講座やワークショップ等で占星術における「太陽」に対し言及することが多くなっているが、その際、太陽サインというのは、努力なしで得られるものではないこと、太陽が生み出すエネルギーとは自己実現のプロセスに他ならないこと、そしてタロットの「ⅩⅨ太陽」カードの絵柄や太陽神アポロンの神殿の格言「何事も過ぎることなかれ」から考えられるように、太陽活動とは「自分のやるべき範囲」をしっかり限定する必要がある、そんな話をしている。

 まさに、西村賢太の言葉からは、それがはっきりとわかるのではないか?

 

 まず、「私小説しか肌に合わないのである」という言葉。そうなのだ、陰サインである蟹座は、自分の感覚や価値観に合わないことは続かないようになっている。自分の「感じ」を無視して嫌々続けようとするから心や身体が病んだり、不安定に働いてしまうのだ。

 

 次に、「意地でもこのスタイルにしがみつき、これ一本で押し通してゆく決意を新たにさせられてしまう」という言葉。これなど、まさに私が活動サインを表現するときに使うキーワード「決壊と制限を設けることで覚悟が生まれる」のであり、自らのスタイルを持つことで、これしかない、これで行こう、そういった決意が生まれるということ。

 

 最後の「常に同一の主人公しか使えぬ、小説としては、本来かなり致命的な制約を受けた中でひたすらに足元のみを掘り下げると云う、まことチンケな小世界の探究も、しかし一切の逃げ場がないぶん、小説の作法としては案外にスリリングな実験と冒険の実践と云った面もないではない」この一文は、多くの人たちが納得するところだと思うが、まさに蟹座太陽そのものと言っていいかもしれない。

 

 「足元のみを掘り下げる」「チンケな小世界の探究」などは、ハウス=ICを想起させる言葉であり、足元チンケな小世界の先にこそ、彼の私小説の魅力––多くの人たちを惹きつけ、虜にした普遍的な世界––があるわけで、蟹座=月=ハウスの活かし方の見本というべき行為であると思われる。

 その作業を「致命的な制約」「一切の逃げ場がない」中で行っていく、それがまさに活動サイン的な太陽活動と言えるのではないだろうか。

 彼の言葉はこのように続く。

 

この窮屈さを閉鎖的と云うも、一種のマゾヒズムと云うも自由である。或いは、一個の形式美と讃美して云うも、これまた勝手な話だ。  

ただ少なくとも私は、かような自己規制を伴う、古風だが誤魔化しの利かない小説のかたちに人一倍の魅力とやりがいを感じ続けているのである。

 

 これは何も活動サイン・水エレメントに限った話ではない。太陽活動というのは、または自己表現と言ってもいいが、自己表現というのは、一回一回が勝負の瞬間なのだ。あれもこれもでは、「何者か」を生み出すことはできない。どんなささやかな活動であっても、その瞬間は「誤魔化しの利かない」「かたち」に己を賭けることが大事なのだ。

 

 自分の中の蟹座=月=ハウスを思うとき、また太陽そのもののエネルギーの使い方を考えたとき、ぜひ西村賢太の太く短い人生に思いを馳せてみてほしい。

 

 今、自分が何をすべきなのか、どう制限を設けたらいいのか、時には真剣に己に賭けてみてもいいかもしれない。

 たとえ瞬間であったとしても、魅力とやりがいに出会えるのは素晴らしいことではないだろうか。