今月のおでかけ ~ 御岩神社

御岩神社行ってきました。

名前すら知らなかったのですが、妹に誘われ向かった茨城県日立市の御岩神社。台風が過ぎ去った翌日、蒸せ返る暑さの中、足を踏み入れればそこは、杉並み木が空を覆い、心地良い緑の世界。歩く側を流れる水の音と共に私の五感を満たしてくれる場所でした。

御由緒はとても古く日本最古の書の1つ「常陸國風土記」721年 に 清らかな山かびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる と記載。
古代より信仰の聖地とのこと – 御岩神社HPより

御岩神社参拝を済ませた後はさらに奥のかびれ神宮へ。
何も知らないとはいいもので、考えなく進んだ表参道からのルートは思っていたより険しく、3歳になった娘を連れて行くには台風後という事もあってちょっと凹みました。

さらにその先かびれ山頂なるものがあるとの表記。後ろ髪を引かれながらも、汗でワカメみたいになってグズる娘と、知ってしまった不安もあってか足が進むことはなかったけれど、機会があればと思う。

年齢からくるものなのか、神殿の前に立ち手を合わせるという作法に無邪気ではいられなくなっている。作法というよりかは、そこに潜んでいる何かのやり取りに対してなのか。

昔の人々は、参拝の前に近くを流れる川で身体を清めてから臨んだとか。その名残が手水で手と口を清めるというものらしい。
形、型、作法の奥に潜んでいる何か。
道なき山あいに佇む神殿。
誰がいったい何に対して手を合わせているのか。
ここから先にも後にも進めないような疑問がいつも通り過ぎていき、日常へと戻ってくる。

それは信じるとか信じていないとゆうような所からの問いかけではない。
講座の中で、天秤座の金星の象徴にも沢山の次元があるという話が印象に残っているけれど、おそらくはそこなのだと思う。

自分の日常をそのまま引き連れて行くには、あまりにもな感を存在の何処かがキャッチしているのではないだろうか。

ここで自分の中のどの天体が反応しているのか?むすびついてみてはどうかと、
nico先生から考えるヒントをもらった。

木星、土星の組み合わせは、形式的な祈り。
太陽、海王星の組み合わせは、大いなるものへの畏怖の念。

私にとっての木星土星の組み合わせは、いつでもこうあるべきもの、ルール、形を前提としてそれに倣うよう、ちゃんと社会に通用するよう働きかけてくる。社会的なものへの従順さがある一方で、太陽海王星は、やはり真実、源泉に触れたいという欲求がとても強い。

誰が何の為に?

「何の為」という問いかけそのものが、とても木星土星っぽいなと思う。
私のホロスコープ上では9ハウス、10ハウスの支配星でもある木星土星は、より自分の感覚から遠く離れ意義を強く求めてしまうのかもしれない。

「誰が」 これもまた面白いもので太陽海王星の感じやすい所ではないだろうか。自他との境界が曖昧になる感覚。
日常という衣を脱ぎ捨て手を合わせる一時、鼓動、脈打つリズムを通して言葉では表現出来ぬ何かと交ざりあう感覚。
あぁ、大丈夫なのだと、思えてくる。

自分の脈打つ音に真摯に向き合えたなら日常はいつでも神殿となるのかもしれない。

今回は一泊二日の旅でした。2日目は出雲大社の分社があるというので、水戸へ向かい。近くに笠間焼のギャラリーがあるというので、お店をピックアップしていきました。
とても素敵でした。