星と旅する ~スリランカ

私がスリランカの地に降り立ったのは、火星双子座期に入ったばかりの4月下旬。
友人から思いがけなく誘われたのが旅のきっかけだが、ここ最近はもっぱらお気楽ひとり旅が主流の私にとって、誰かと連れ立って旅をするというのはある意味非常事態。

旅の道中、自分の月の居場所をしっかり確保できるかどうか多少の不安を覚えつつも、火星双子座期の目標が「新しい視点を得るために多くの人と関わること」だということを思い出し、誘われたその日のうちにスリランカ行きの航空券を押さえた。

基本的にぐーたら派で、「行動力」や「瞬発力」というものは普段持ち合わせていないのだが、旅に誘われたのがちょうど牡羊座火星真っ盛りの時期だったので、きっと牡羊座の後押しがあって即断即決できたんだろうと今になって思う。

聞くところによるとスリランカは「呼ばれないと行けない国」らしい・・

行こうと思えば誰だって行けるんだから、呼ばれるとか呼ばれないとか、何を基準に判断しているのかと聞かれたら、答えに困ってしまうが、効率重視な天秤座の私は、どちらかというと何かと便利な、いわゆる都会というやつが好きなわけで、そんな私が敢えてスリランカに誘われたということは、とりあえず「呼ばれた」ってことでいいんじゃないかと自分勝手に解釈し、ひとまず納得。木星も天秤座にいることだし、この際スリランカで思う存分双子座火星的交流をしようと密かに誓った。

古くから占星術が根付いているスリランカでは、あらゆるものをホロスコープで決めるのだそう。

スリランカは国民の7割が仏教徒であることもあって、お寺が多く点在する。
滞在中、友人のお供で滞在先の近所にあるお寺に出向くことがあった。
お寺の敷地内に入ると、10人ほどの小坊主さんたちがわらわらと集まって来た。
私にとって小坊主さんと言えば『一休さん』を連想するぐらいで、リアルに姿を見ることはおそらく人生で初めての体験。小坊主さんたちにとっても、日本人の私たちは珍客だったようで、しばらくの間まじまじと見つめられ、ちょっと動物園のパンダになった気分だった。

スリランカでは子どもが生まれると、その子の将来を占い師に観てもらい、「早くに亡くなる」というような結果が出た場合、両親はその子をお寺に預けるのだという。なぜなら、お寺が一番安全なところだと考えられているからなのだが…

「ちょっと待って、じゃあ今目の前にいるこの子たちは、お坊さんになる以外に道はないっていうこと!?」

心理占星術を心の拠り所とし、「いつからでもいくらでも自分の可能性を見つけて、誰だって未来は自分の意思で切り拓いていくことができる」という考え方を心の支えに生きている私にとってはかなりの衝撃であり、そして、無性にやるせない気持ちになった。

年の頃はだいたい4、5歳~10歳ぐらいの袈裟をまとった、ちょうど水星期の子供たち。

隣にいた友人は彼らのキラキラした瞳が好きだと言った。確かに深く澄んだ綺麗な瞳。ただ時折り、その中に哀しみのようなものが見えた気がしたのだが、思い過ごしだろうか。

人は見たいように物事を見る。ホロスコープで将来を決められてしまう子供たちを見て、憐みという若干上から目線な感情を通して見てしまったからなのかもしれない。

「文化や慣習、それはそれとしても本人が望めば望む通りに生きていくことだってできるはず。心理占星術で可能性を見いだせばこの子たちにももっと開かれた未来があるはずなのに…」

その場で彼らのチャートを展開したくなったが、ふらっと立ち寄ったよそ者の私がとやかく口を出すことではないし、それにもし、子供たちがお坊さんになる以外の可能性を見いだしたら、お寺からお坊さんがいなくなってしまい困るではないか、と余計なお世話なことまで考えながら、なんとか思いとどまった。

ほんの数分の間に、ホロスコープの持つ影響力の強さを見せつけられ、なんとも言えない無力感に襲われたが、いい歳して「ああでもない、こうでもない」とネイタルチャートを持て余し、いまだに人生の目的地が霞んでよく見えないまま、ふらふらと彷徨い続けている私からすると、あの幼さでホロスコープに描かれた運命を素直に受け入れ、それに抗わず生きる姿は尊敬の念さえ抱いてしまう。

それにしてもこんなに幼いうちから両親と離れて暮らすなんて、彼らはどんな思いで毎日を過ごしているんだろう。寂しいに決まっている?それとも案外割り切って過ごしているのだろうか。ショックのあまり聞きそびれてしまったので、また機会があれば胸の内を聞いてみたいと思う。

彼らから熱い視線の洗礼を受けたあと、お寺の敷地内をいろいろ案内してもらった。
「あれが菩提樹だよ!」習いたての英語で教えてくれる。

ひとりの小坊主さんがどこかに行ったと思ったら、手に教科書らしきものを持って戻ってきた。そこには日本人のお坊さんがスリランカを訪れたときの写真が載っていて、それを指さしながら現地の言葉で興奮気味に何かを訴えかけてくる。おそらく「この人知ってる?」というようなことを言っていたんだと思う。どうやら教科書に載っているお坊さんと同じ国から人が来たので嬉しかったようだ。

帰り際、遠慮がちに「また来てね…」と言う彼らがかわいすぎてそしてちょっと切なくて、私は「絶対また来るよ!」と言いながら、ギュッと抱きしめたい衝動に駆られた。身体は小さいがそれでもやっぱりお坊さんなので失礼があってはいけないと、その衝動をグッと堪え、手を振る彼らのあどけない笑顔に見送られその場をあとにした。

お寺からの帰り道、太陽に照らされた菩提樹の葉が、一瞬の風に吹かれ一斉にキラキラ揺れた。「今、神さまが通ったんだよ」と現地の友人が教えてくれた。

小坊主さんたちのことで頭の中が必要以上にグルグルしていた私にとっては、全身の力がスッと抜け、少し救われたような気がした瞬間だった。

未知の世界に触れ、同じ時代を生きてはいるが、人生観や価値観は人それぞれ無数にあるということを改めて認識させられた、まさに火星双子座期的な貴重な体験。そしてそれが今、妙に新鮮に感じる。きっとこの感覚を身をもって味わうために、私はスリランカに呼ばれたのだろう。