娘と月と私

もうすぐ娘が3歳になろうとしている。

この時期はとても大切だよ、とあちこちで沢山の情報に触れる中で自分の不十分さや、出来てない不安に右往左往していた時もあった。
やっとここ最近落ち着いてきた感がある。諦めといったらいいのか、ないものはないのだと。
そのような中でも、自分の発する言葉にとても集中するようになった。言葉の背景と言ったほうが近いかもしれない。私が伝えるものに心はあるのか。

 

神秘思想家のゲオルギイ・グルジエフは、

「子供が何か人に貰ったら、ありがとうと言わせる親は糞」と言った。
「~人々は子供を自動的に動くようにしつける、子供をロボットにする」

「グルジェフ ミーティングの記録」より

 

子供の感情や感覚の発露を待つということなのかもしれない。色々な場面で待つことの難しさを感じる。私の中にもう既にある世間、社会というものを基点にステレオみたいに反応しているやり取りを何の躊躇もなく伝えている。
ありがとうと言うその言葉の背景に感情はついてきているのか? 言葉はいくらでも装えてしまう。そして習慣は装っている事さえみえなくしてしまう。

 

この月の時期、私は娘に何をしてあげられるのだろうか?
むしろ手を引かれているのは私なのかもしれない。

羊水の中、12ハウス魚座から始まる水の循環、集合無意識。
赤ちゃんはお腹の中で魚の時代、両生類、爬虫類、原始哺乳類から人間として誕生まで35億年の生物進化を再現して胎児になるという。

全ての記憶を内包しつつ、個になろうとする生命。
IC軸を起点とした4ハウスから始まる蟹座の月、ルーツ、拠り所、安心の場。個になるとは、どこまでも正直に素直に自分自身と向き合うことではないだろうか。

時代や社会、生まれてきた環境、他者の存在さえも脇において、ただ自分であるという事に安心を見いだせたならどんなにか素敵なことだろうと思う。
そしてそこが出発点であれば、自分をとりまく全てを感謝と共に受容しさらなる変容に向けてのエネルギーになるのではないか。

 

究極的には、人が人に何かしてあげられることは何もない。娘であったとしてもだ。
自分の中にもう一度失われた月を取り戻すこと。確かに手の届く自分にちゃんと触れること。それは全てに繋がっている。
水は循環を繰り返し、全ての記録を保持している。
ならばそれだけで充分ではないだろうか。

 

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