心理占星術家・nicoが選んだ今月の言葉は….
プロは自分の全人生を写真に賭けている。ねらったモチーフはとことんまで撮る。確実に写ったと思っても、まだ撮る。いい写真ができたと思っても、まだ撮る。撮れた上にも撮ろうとする。その意気込みの激しさは勝負師の世界にも似ている。プロは、いわば、写真を持って、全人生、全社会と対決しているのである。
撮るものといえば、それらはすべて、ぼくの好きなものであり、ぼくが睨んで、ハッと胸を打たれたものばかりなのである。ということはとりもなおさず、我々の祖先が積み上げてきた、日本人のエネルギーを内に秘めているものたちなのである。
『フォトアート1956年 写真は沢山撮らねばならない』より
今月の言葉
1909年10月25日生まれ。
山形県酒田市生まれ。蠍座に太陽を持つ。戦後日本を代表する写真家の一人。
みずからをリアリズムに立脚する報道写真家として位置づけ、激動の日本を記録。日本文化にこだわり「文楽」「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「古寺巡礼」など写真史に残る不朽の名作を数多く残した。また「室生寺」のたたずまいや仏像に魅了され、戦前戦後を通じ40年通いつめ、脳出血で倒れたのち、車椅子生活になってからも室生寺を精力的に撮り続けた。土門は「カメラは道具にすぎず、写真を撮るのは人間であり、思想である」と捉えていた。
8番目のサイン蠍座まで歩みを進めてきた。前のサイン天秤座にて外界に意識が開かれ、新しい目覚めが起こった後、不動サイン蠍座で、私たちは一度歩みを止めることになる。ここで不動サイン・水エレメント・蠍座は改めてこう考えることになるのだ。
魅力的なものがあふれたこの世界で、私が本当に大切にしたいものとは一体何なのだろうか。外界の強い刺激を受けた後、私が見出すべき価値とは何か。
土門拳は中学を卒業してから丸四年間、様々な職業を転々、迷路の闇をさまようことになった。画家で立つ道を模索したが、その命綱が断たれ絶望が彼を襲った。
「生きていくべき力の泉を枯らしたというべきであったかもしれない。しかも、まだそれに変わる新しい泉は掘り当てていず、鶴橋を打ち込むべき方向すらもわかっていなかった。何度も自殺を考えた」
という。その後もしばらく道草をし続けた。
蠍座の体験とは、こういうことである。
才能で生きていこうと、意気揚々と社会へと飛び出してみたものの、世界は広く、自分はちっぽけな存在だと気づく。その後も、挫折は一度や二度では終わらない。期待は打ち砕かれ、人が自分をどんどん追い越していくように思えてくる。欲望が強ければ強いほど、志が高ければ高いほど、何度も何度もその勢いをくじかれることになるだろう。
それでも、やがて人は立ち上がることになるのだ。自分の中の諦めきれない「生」への欲求と言うべき何かによって、自らを何とか奮い立たせ、未来へと突き動かすことになる。
これぞ、蠍座的再生というものである。負の体験を力へと変え、その後の世界を切り開いていくことになるのだ。
つまり私たちは、蠍座期にどれだけ「負の体験」ができたのか、そして、その体験を土門拳の言葉によれば「火柱」へと変容し、生きていく力を手にすることになるのかということである。そこで生きる力を得るのか、それとも失うのか、それは本人の思い次第(水エレメント)ということになるだろう。
そのような苦しみの中で手にした価値=力を、人はそう気安く扱うことはない。苦しみから生まれた結晶として、一つの信仰として十分に大切に扱われることになる。だから、
「とことんまで撮る。確実に写ったと思っても、まだ撮る。いい写真ができたと思っても、まだ撮る。撮れた上にも撮ろうとする」
と全身全霊で向き合うことになるのだ。
私たちは、どれだけ無力感と向き合ってきただろうか。その負の体験から逃げずに、それを生きる力=火柱として取り込むことができただろうか。そうして得た「生」とどれだけ真剣に向き合っているのだろうか。
土門拳の生きる力とは、中学時代に関東大震災で焼けたバラック図書館で手にし、心に焼きつけた和辻哲郎の「古寺巡礼」であり、奈良や京都の寺々の仏像や建築の挿絵である。その後の人生の主題として彼を支えることになるのは、こうした少年時代のときめきや憧れであるということだ。
自分がようやく見出した価値あるものに対し本気で向き合ったとき、土門拳が「古寺巡礼」に残した
「苦しい旅を続けているとき、自分はなんでこんな苦労をするのかと考えさせられる。結局、一日本人としての自分自身が日本を発見するため、日本を知るため、そして発見し、知ったものを皆に報告するためだという思いに至る」
というテーマへと歩みを進めることになる。蠍座体験が十分に行われたのち、私たちは次の射手座の「布教活動」へと歩みを進めることになるのだ。
「何をしたらいいかわからない」という人が時々いる。そういう人は、まず人生を生きてみるしかないとしか言いようがない。何者かになりたいという欲求があるなら、一度、本気で苦しみを受け入れるしかない。その苦しみの中で、ようやく「私が本当に大切にしたいものとは一体何か」「私が見出すべき価値とは何か」が見えてくるのかもしれない。