東洋の占術をやっていると、どうもその奥に西洋のホロスープ占星術の影がちらちらする。例えば、紫微斗数は生年月日時による12宮の命盤(ホロスコープ・チャート)を書いて、そこからその人の情報を読み取っていく。現在主流となっている西洋のホロスコープ・チャートは円形であり、紫微斗数の命盤は方形であるが、そのことを除けば、星の違いこそあれ、全く同じモデルを採用している。また西洋においても古い時代のホロスコープ・チャートは方形であったと言われているし、今のインド占星術における南インド式のホロスコープは紫微斗数と同じかたちの方形を用いている。さらに、仮に十二支をサイン、宮をハウスと考えると、紫微斗数は西洋占星術のホール・サイン・システムと対応する。紫微斗数はホロスコープ占星術のモデルを採用していると言っていい。
さらに紫微斗数の場合、正反対(180°)に位置する宮を対宮と呼び、4つおき(120°)の宮を三合宮と言って重視するが、これは西洋占星術の「オポジション」「トライン」に相当する。
また、紫微斗数では旺廟利陥という星の輝度(品位)を定めるが、その中で太陽星と太陰星(月)については、一日の中での実際の星の輝き度合いに従ってこれを定めている(太陽星は日中の時間帯は明るく、夜の時間帯は暗い。太陰星はその逆)。しかし若干の例外が認められ、太陽星は最も輝いているであろう正午の時間帯(午)は2番目の輝度の「旺」であり、日の出の時間帯(卯)に最も高い輝度の「廟」となる。はじめのころはその理由がよくわからなかったのだが、「卯」は東の地平線であり、上昇宮(Asc)に該当するので、その位置の太陽に特別な意味を持たせたと考えると納得がいく(この場合「日照雷門格」という吉格を形成する)。また、「午」宮に入った太陽星は輝度こそは「旺」であるが「日麗中天格」という吉格を形成し、紫微星が「午」宮に入ると「極響離明格」という大吉格を形成する。「午」宮は西洋占星術で言うと天頂(MC)に該当するが、これは天頂(MC)に吉星が乗っている状態だと考えれば納得がいく。
他にも六壬では、紫微斗数と同様の12宮による盤を使用するし、そこで使用される「月将」は12サインと対応している。
四柱推命にはそのような影はなかろうかと思われるかも知れないが、十二支の関係を表す「冲」は「オポジション」であるし、「三合会局」は「トライン」である。また松岡氏によれば「支合」は西洋占星術のカルディアン・オーダーに由来するということである(「安倍晴明「占事略决」詳解」松岡秀達 p.57)。
というように、中国由来の占術も、その成立や解釈法に西洋占星術の影響を大きく受けている。ホロスコープ占星術は、紀元前に古代バビロニア地方で生まれ、ギリシア・ヘレニズム文化の中で形作られた。その後、比較的早い時期にインドに伝わり、さらに中国や日本にも伝わった。我が国でも、白鳳時代にすでに、黄道12星座の意匠を描いた「星曼荼羅」が描かれている。これらのことを詳しく見ていくと、文化史的にたいへん興味深いのであるが、長くなるのでその詳細はまたの機会に譲りたい。
以上のようなことがわかると、中国や日本で使われている十二支も西洋由来であると言い出す人が現れた。が、それは違うのである。たまたま12という数が対応しているだけなのである。十二支の発生については様々な説があるが、その起源は「歳星記年法」にあると言われている。中国の古代、木星(中国古代の呼び名は歳星)が、およそ12年で天球を一周することを見て、それをもって年代、年号の記述としたのである。その歳星が今どこにいるかを表すのに「十二次」を用いていた。その十二次が時代を下るにつれ「十二辰」と呼ばれ「十二支」と呼ばれるようになった。どうも、殷代には「十日十二辰」というものがあったようなので、それらの影響もあるのかも知れない。いずれにせよ、「歳星記年法」が使われていたのは春秋戦国時代だから紀元前8世紀~紀元前3世紀頃のことである。西洋由来というのは考えにくい。
ではなぜ、洋の東西同じくして、文化の黎明期に12という数をひとまとまりとして、ものごとを並べたり数えたりする(12を基数とする)、ということが発生したのであろうか?現代の我々は10進数を使っている。つまり10を基数としている。いや、古代社会でも10という数字を基数にしてもいる。十干がそうである。これは、人間の指は右手5本、左手5本なので、ひい、ふう、みい、と指折り数を数えると10がひとつの区切りとなるからだ、と言われている。ではなぜもうひとつ、12という数字を基数としたのだろうか?
ひとつには1年が12ヶ月ということがあるのかも知れない。月は規則的に満ち欠けを繰り返し、およそ12回の満ち欠けで季節が巡る。まず人類は、これを生活のためのカレンダーとして利用したのであろう。我が国では明治5年に西洋のグレゴリオ暦を採用するまでは、この月の満ち欠けのカレンダー(太陰太陽暦:旧暦)を使っていたし、現代でもイスラム世界では太陰歴(ヒジュラ暦)を使用している。西洋においても古代バビロニア、ユダヤ、ギリシアでは太陰太陽暦が使われていた。
日本語でも一ヶ月のことを「月」と言うし、英語の一ヶ月「month」は月「moon」に由来している。古代から人類は月の満ち欠けをカレンダーに使っていたことの査証である。
次に12という数の性質を考えてみよう。10という数は、2と5でしか割れない(数学的には1と10でも割り切れるが)。しかし12という数は2でも3でも4でも6でも割り切れる(数学的には1と12でも割り切れる)。これは計測道具や度量衡が発達していなかった古代社会に住む人々にとって、すごく便利なことであった。だから人類は12も基数としたのだ、という説がある。
たとえば、お爺さんが山に芝刈りに行って、柴をたくさん取ってきたとしよう。それを12の束に分けて束ねておけばすごく便利なのだ。左隣の家の人から分けてくれと言われれば、6束渡せば公平に二等分したことになる。右隣の家からも同時に言われれば、それぞれ4束ずつ渡す。すると公平に三等分したことになる。向かいの家からも言われたら、3束ずつ渡す。さらに向かい両隣の家からも言われたら、それぞれに2束ずつ渡すと公平に六等分したことになる。
このように12を基数とすると、分割分配が非常にやりやすくて便利なのだ。今でも鉛筆などは12本をまとめて1ダースという呼び方をするが、この時代の名残りであろう。また、英語の数詞は、one、two、three、、、 ten、eleven、twelve、thirteen、forteen、、、 と続く。1から12までの呼び方と13以降で呼び方が変わる。これは明らかに古代社会において12を基数としたことの名残りである。
したがって洋の東西において自然発生的に十二支が用いられ、24時間が用いられ、十二刻が用いられるようになったのである。
12という数字の性質により、西洋占星術では「2区分」「3区分」「4区分」が生まれ、オポジション、トラインの概念が生まれた。中国においては、「冲」「三合」「破」「害」「支合」の概念が生まれたのである。東西ともに占星術において12という基数を利用したことで、その検討と工夫に多様性が生まれた。12という数の性質、神秘的ですらある。