心理占星術でつながろう! ご当地紹介リレー VOL.3 屋形島編

my local town

第3回 大分県佐伯市屋形島

屋形島ゲストハウス、後藤さん

生まれ育ったのは
人口12人の極小離島

島をくまなく歩いても30分もかからない。観光名所も見どころもない。ただ自然と有り余る時間だけがある人口密度、自然の豊かさ、生まれた場所である安心感など、気に入ってることは多い….

自分を外に探してもどこにもいない。自分はここにいる。

自分という存在の不確かさや曖昧さに目を背け、ここにいる自分らしい奴を「わたし」と設定し、自分なんて外を探してもどこにもいないと自分探しを笑う。そういう意味で当時の私は笑われる側の自分探しをする若者だったかもしれない。

私のASCは射手座にあり、月、金星、海王星が1ハウスの中でステリウムになっている。自分のアイデンティティについて問いを立てずにはいられなかったのだろう。

そんな私も40代になり、20代にバックパッカーでインドへ、30代に思いつきでゲストハウスを運営しはじめ、つい最近は離婚したりと人並みに波瀾万丈な人生を歩んできた。今ではいわゆる自分探しなんてしてないけど、相変わらず自分という存在の不確かさと曖昧さに惑い、ただその揺らぎに一定の安心感のようなものを感じられるくらいには擦れてきた。



ここまでの道のりを少しだけ話してみたいと思う。
生まれ育ったのは今住んでる屋形島。現時点で人口12人の極小離島だ。限界集落、過疎集落というレッテルのせいでゲストハウスの事業などやってること全て慈善事業と勘違いされやすいのが難点だが、人口密度、自然の豊かさ、生まれた場所である安心感など、気に入ってることは多い。

子供の頃はルールも少なく気兼ねない人間関係が心地よく楽しい少年時代を送った。小学校は船で本土に通ってそれなりの田舎の小学校に通ってたから友達もいたし学校から帰ったら半径2kmの島の生活は自分の縄張りのような安心感があって好きだった。

水星期は父親をはじめ周りの大人からの世界観の押し付けは感じてたものの、島外の友人などとの交流を楽しんでいたんだろう。天秤座の水星は土星がコンジャンクションしていても、月、金星のセクスタイルの影響で安心と楽しさを感じていたのかもしれない。

だけど中学校に入り音楽や文学、ファッションなどの文化に魅了されると、島の野暮ったさや田舎という狭い世界に住む大人たちの偏見、情報の遅さが目につくようになり、いつしか島の生活は退屈なものになってきた。

そのフラストレーションは自分の可能性についても抑圧されてる気がして、ここにいては「本当の自分」に出会えないとまで感じるようになる。広い世界を見たい。その衝動は大きくなるばかりで抑えられないままでいた。

私の射手座の金星は天秤座の水星とセクスタイルでアスペクトを形成している。確か友人からパンクバンドを教えてもらったのがきっかけで、様々な文化に興味を持つようになったと思う。私の金星の世界観は友人との交流を通してより広い世界にアップデートされたのかもしれない。

中学を卒業後、別にやりたいことがあった訳ではない。行きたい高校もなかった。島を出る。その一つのモチベーションで下宿しなければいけない大分市内の高校を選んだ。島暮らしからの下宿生活の変化は最高だった。管理人が私達にとってはいい意味で無責任だったので水を得た魚のように遊び回っていた。島のほうが海があって魚のように飛び回れる現実はさておき、金星期の私はコンジャンクションしている海王星の海を自由に泳ぎ回っているつもりだったのだろう。両親の影響から離れ無我夢中で好きなことをしていた。

高校時代は同じ高校の友人よりも、他校の趣味のあう友人とつるんでいた。趣味のあう友人の少ない高校生活は退屈でいつしか学校には行かなくなり、退学してバイトをすることを決意した。あまり深く考えずにすぐに自分で決断してしまうのは東半球に主要天体が固まっていること、射手座のアセンダントなどの影響もあるのだろうか。

音楽にハマった金星期の私は、ライブハウスやクラブハウスに出入りするようになる。アパレルのバイトも始めたけど、おしゃれが好きというよりは、音楽シーンを取り巻く独特の文化が好きでその延長線上にファッションがあった気がした。今でいえば陽キャでパリピな時期だったと思う。夜の街に繰り出してクラブでたむろしていた。

だが、蠍座の影響が現れてきた私には陽キャは無理だった。レディオヘッドと坂口安吾と鈴木いずみが好きな青年はクラブで遊んでても、家では「ほんとうの自分ってなに」とか「ネガティブを許容してないポジティブは、ネガティブを否定してるからポジティブじゃねえし」とかぶつぶつ考える陰キャだった。自分の外側と内側の違和感を誤魔化せなくなってきたときに地元の先輩がインドから帰ってきた。

先輩の話は想像を遥かに超えて魅力的だった。クラブやアパレルなど社交中心のキラキラした金星の世界に違和感を感じてた私はインドの土臭さ、神秘性などに心を惹かれた。屋形島時代、高校時代、フリーター時代と世界の狭さに物足りなくなりすぐに環境を変えてきたことを思い出す。環境を変えることで自分がいきいきとしていられる場所を探していたのだろうか。魚座のICの影響か、射手座の月の影響か、地に足がついていないのは明らかだ。

インドの話を聞いてすぐに行くことを決意し、レコード売ったり、貯金したりして1年で資金を貯めた。職場を辞めて、アパートを引き払ってすぐにタイに飛んだ。当時バックパッカーはタイを通過してアジアを回るのが主流だった。タイで初海外、ぼったくり、レイブパーティ、ゲストハウス沈没など典型的なバックパッカーの道のりを一通り体験したあと、念願のインドへ向かう。

蠍座の心象風景ーあらゆる陰の側面が存在するインド

インドの旅はコルカタの有名な安宿街サダルストリートから始まる。サダルストリートでは身体が不自由な老人や、孤児、赤ん坊を抱えた母などが路上で暮らしていて、旅人と見るやいなや手を差し出しバクシーシを求めてくる。そのエネルギーは凄まじく、田舎育ちとはいえ裕福な国で生まれ育った私はその人達の目をまっすぐ見返すことすらできなかった。すべての人に小銭を渡すことはもちろんできない。たまたまコインを出したときに手が伸びてた子供に一枚のコインを渡し逃げるようにその場を去る。相手のために渡したコインではなく、自分の罪悪感を紛らわすために、またその場を立ち去るために渡した一枚のコイン。そのコインがその子にとってどんな意味をなすのかは知る由もない。

インドでの経験はそれ以外にも、ためらいもなく騙してくる商人、そうかと思えば寺院で神様に熱心に祈る人、神聖であるはずの牛が路上に寝転んでいてそれを足蹴にする住人、聖なる河では死体や汚物も流れているという。そのほとりに住む人たちはそこで洗濯したり、沐浴もしている。カオスというしか適当な言葉が見つからない。この国のあり方が日本に生まれた私にとって強烈な体験だった。


インドは先進国が隠したがっているものを、これが人間だと言わんばかりに明らかにしているのかもしれない。生と死、信と疑、美と醜、あらゆるモノの陰の側面をみろと言わんばかりにその存在をひけらかしている。こんな風にインドを見てしまうのは、私の蠍座の太陽が見た個人的な心象風景なのだろうか。

ブッダが悟りを開いたと言われているブッダガヤでの出会いは私の人生に大きな影響を与えている。屋形島を出てから、いろんな体験を通して感じた違和感や疑問は増えていくばかりだった。未消化の違和感が溢れんとばかりに心を埋めていく過程を経てブッダガヤである人に出会った。K氏はアジアを回りながら遊行僧のような暮らしをしている日本人。ヒンドゥー教や仏教思想をはじめとする東洋思想、占星術もK氏から教えてもらったカテゴリーの一つだ。それらの考え方や視点は私の違和感や疑問に対する新しい視野をひらいてくれた。

私の太陽は蠍座で守護星は冥王星。ネイタルの冥王星は木星とタイトにコンジャンクションしており、ここで人生の師と呼べる方に出会い、それまでのものの見方が一気に変容したのだと思う。

その後、ネパールでパスポートとお金を盗まれたりしたが、無事帰国。帰国してからは家業であるヒオウギ貝の養殖の手伝いをしながら狂ったようにヒンドゥー思想や仏教思想、占星術の本を読み漁る。双子座的な水星の活性化という意味では充実していたが、家業では親と意見などの折り合いがつかず、パースペクティブとしては他者と社会との関わりを求める傾向がある私にとって他者との交流がほとんどない離島の生活はすごく窮屈に思えてた。それでも家業を継がなければという責任感に駆られて環境を変えるという視点を持てずにいた。視点を変えるという哲学や思想を学んでいたのにも関わらず、自分のことは全く分かってなかったのだろう。もしくは視野が広がっていく過程で自分を見失ったのか。

自分を取り戻す火星、金星の刺激ー沖縄での出会い

しばらく悶々とすごしていたが、やはり埒が明かずもう一度お金を貯めて旅にでる。夢に出てきたミュージシャンのメッセージに意味を感じ、そのミュージシャンの縁の地である沖縄に赴く。そこで滞在していたゲストハウスで出会ったオーナーとスタッフ、そこに集まる仲間に出会い、また新たな衝撃を受ける。

彼らは良い意味で周りや世間の目を気にせず、好きなものを好きといい、やりたいように自分を表現している。彼らは火星と金星をちゃんと大切にしてるんだろうなと思った。

他人と比べてではなく自分の価値観を大事にすること、自分で選んで自分で決めること。私自身インドにいく以前はできていたかもしれないことが島に帰って家業をしているとできなくなっていたことに気づくきっかけでもあった。

それからまたインドに向かう。今度は寺院巡りや聖地巡礼を目的に南から北までインドを回る。そこで訪れたダラムサラという亡命したチベット人のコミュニティがある地区でダライ・ラマ法王の住んでいるお寺もある場所。チベットという自分の故郷があるのにそこに住めずにいる人たち。選べない環境の中でいきいきと生活しているチベット人を見ていると、選択肢があるのに覚悟が決まらない自分の内面が意識にのぼっていくのを感じていた。ダラムサラでは仏教の本を読み、散歩する日々を続けていた。そこで出会った人に易経をやってもらう。世界を見れば世界がわかる。自分を見れば自分がわかる。

何かが吹っ切れて帰国。それからも葛藤があり、両親との衝突、元妻との衝突などを経て、自分の内面の問題を可視化していく。インドであったK氏とはメールや直接会い行って助言を頂いたり、相談に乗ってもらったりしてた。様々な葛藤の中、やっと自分が大事にしているものが見つかる。

人口十数名の島で家族以外ほとんど人と関わらず家業であるヒオウギ貝の作業に追われることは自分の望んでいる人生ではなかった。当時、家庭を持っていた私は島から離れるという選択肢はなく、どうにか充実した人生を送りたいと考えていたときに、沖縄のゲストハウスをふと思い出す。自分が旅に出れないのであれば、旅人に来てもらえばいいじゃん。

屋形島ゲストハウスの誕生

そうして空き家をリノベーションしてゲストハウスを作った。観光地ではない小さな離島にあるゲストハウス。ゲストハウスから歩いて数十秒でビーチ。島をくまなく歩いても30分もかからない。観光名所も見どころもない。ただ自然と有り余る時間だけがある。情報社会でタスクに追われる現代人が経験できないこと、それは時間が有り余るということなんじゃないかと思っている。共有スペースは余白を多く取り自由に使えるように、自分の本もたくさん並べているのでタスクのない余白の中でいろんな世界に触れられる。

コミュニティスペース

海王星と月と金星のコンジャンクションがある私にとって、足し算ではなく引き算でもたらされる豊かさを感じたい欲求はゲストハウスで提供したい世界に通じるのかもしれないと思う。

そして私個人のウェルビーイング。それは自分が今に至るまで、そしてこれから経験するであろうこと、その中には良いものも悪いものもあるかもしれない。出会った人々から受け継いだもの、友人知人と話して気づいたこと、反面教師として出会った人々も含め、ありとあらゆる経験の中に価値があったし、それを自分のためだけに使うのはもったいない。

誰かからもらった蝋燭の火種は、他の蝋燭に移さなければ、その一本で消えてしまう。ただその蝋燭の火種を他の蝋燭に移し続けることで、永久に残り続ける可能性がある。蝋燭は肉体であり形であり有限である。火種は媒体に繋いでいく限り無限の可能性を秘めている。歴史はこうして価値あるものを繋いできているし、それを受け取ったものは次に繋いでいく義務があると思っている。

花が咲いて枯れ種を残すように、人が生まれて死んでもその人の営みと経験が時代を超えて繋がっていくように、屋形島もなにかしらの循環の中にいるはず。そこで生まれる営みを大切にしたいしその循環を担いたい。それが私が屋形島でやりたいことだ。

私の受け取っているものなどほんの小さなモノかもしれない。もっと多くのものを受け渡す役割のある人もたくさんいると思う。ただそこには差別はなく、蜂が花粉を運んで受粉し新しい花が咲くように、小さな人間の営みの価値というものはこの宇宙の循環のなにかしらを担っていると信じている。

屋形島は現在人口12人の過疎高齢地。この島の歴史は終わろうとしているのかもしれない。そんな島で私ができることは移住促進でも過度な地域活性でもない。形ばかりにとらわれた延命治療をするよりも、この島で、またゲストハウスを舞台にどんな人たちがどんな経験をするのか、そしてその経験が新しい火種となって残り続けることが大切で、それができるなら名前も形もいらないんじゃないかと思う。

蠍座の太陽を持つ私のウェルビーイングは、そのような生と死のサイクルの中で価値あるものを、大切なものを人から人へ繋ぎたいと思っていることなのかもしれない。

世界は自分を映し出す鏡、世界を知るための占星術

自分を探して屋形島を旅立ち思ったことは、外の世界に触れ、旅をして、人と出会うことではじめてここにいる自分に気づくことができるのではないかということ。自分が外側にいないとは思わない。自分を知るためには、相手がいて、世界があって、思い通りにならない経験があってやっと自分を実感できる。だから私が屋形島から出て経験したことは、世界を知ることと同時に自分を知る旅だったんだと思っている。そうなると不思議なことが起こる。世界がなければ自分を認識できないということ。自分と他者の境界線を分かつものはなにか。

この世界は鏡のように自分を映し出しているように見える。眼の前に現れる人々や出来事、それに対峙したときに起こる共感や感動、葛藤、違和感など言葉にできない感情も含めて、それら全部が自分に他ならない。それらをある固有の象徴として、個性あるイメージとして具体性をもって知る手段のひとつが占星術なのではないかと思っていた。

去年の春、占星術の動画をYouTubeで検索していたときにnico先生の心理占星術の動画に出会った。その時にお話されている構造の話やホロスコープというマンダラの話などにハッとし、占星術の象徴が指し示す意味について学びたいという衝動が心をよぎった。心理占星術講座を検索すると数日後に基礎講座が始まるみたいだったので、滑り込むように応募した。

蠍座太陽の私にとって相変わらず自分探しという未知なる旅は終わってないのかもしれない。ご当地の説明をほとんどしなかったけど、ぜひ機会があれば屋形島に来て実際に経験してほしい。

ヒオウギ貝、ご馳走します。

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