アポロンの竪琴
2023 蠍座~大野一雄
何もかもご破算にして
投げ出して…
考え出したものではなくて
立ち昇るものがあなたのものだ
著名人の言葉から12の太陽サインの生きざまを考えてきた「今月の言葉」がリニューアル!
自分の理想=太陽を生きるためには、何が必要なのだろう。
水星神ヘルメスが発明した太陽神アポロンの竪琴の神話をご存じですか。太陽の理想や意図は、水星という竪琴=言葉があるからこそ美しい音色を奏でることができるもの。太陽の言葉=アポロンの竪琴のメッセージに耳を澄ませてみてください。
あなたの生き方、働き方のヒントを受け取ることができるかもしれません。
心理占星術家nicoが選んだ今月の竪琴
蠍座・太陽の言葉は…
何もかもご破算にして投げ出して。そこから立ち昇るものがあなたのものだ。考え出したものではなくて、立ち昇るものがあなたのものだ。精密画のように立ち昇るものを。追いかけることと立ち昇るものが一つでなければならない。立ち昇るものと追いかけることをして、立ち昇ったときにはあなたはすでに始めている。立ち昇るそのものがあなたの踊りだ。空はどうなっているんだい。立ち昇るものを受け入れろ。空は一体どうなっているんだい。そして自由に広がっていく。手が足が、命が際限なく自由に立ち上がるときに手足は同時に行動している。あとじゃだめだ。
著書『稽古の言葉』より
蠍座の言葉
大野 一雄(おおの・かずお)
1906年10月27日北海道函館市生まれ。太陽、水星を蠍座に持つ。
舞踏家、モダンダンサー。
生家は北洋を漁場にする網元で、父はロシア語を話し、冬はカムチャッカまで漁に出た。日本体育会体操学校(現日本体育大学)に入学。在学中、帝国劇場の三階席から観たラ・アルヘンチーナの舞踊に深い感銘を受けた。体操学校を卒業後、横浜の関東学院に体育教師として赴任。体育科目のために自らダンスを学び始める。1938年に召集を受け、九年間、中国、ニューギニアで従軍。43歳のとき、東京の神田共立講堂で最初のリサイタルを行った。太平洋戦争でニューギニアにおいて1年間の捕虜生活を送り、その後舞踊家としての活動を再開。1950年代に土方巽氏と出会い大きな転機を迎える。二人は西洋の影響を強く受けたモダンダンスから、日本人の内面性を扱う身体表現である「舞踏」を創造した。100歳を超えても舞台に立ち続け、立つことが困難になった後も車椅子に乗ったまま、最終的には手で踊りを続けた。(
オフィシャルサイト 大野一雄 舞踏研究所
蠍座生まれの著名人、特に芸術家と言われる蠍座生まれの人たちの間には、どうも共通している特徴があるぞ、だいぶ前からそんな考えを持っていた。講座中に「蠍座・8ハウス・冥王星は他者の価値を利用する力」という象徴を常々伝えているが、著名な芸術家ほど人生の重要な時期に重要な人物と出会い、その出会いで得た力を活動の本源として利用していったように思えるのだ。
たとえば、画家のパブロ・ピカソ(1881年10月25日生まれ)の代表的な絵画様式にキュビズムがあるが、これはジョルジュ・ブラックとの共同作業で進められたものだ。当初ブラックはピカソの仕事の重要性をいち早く認め、また7点の風景画を画廊で公開し、これを見た批評家「ブラックは一切を立方体(キューブ)に還元する」と評した。これがキュビズムの名の起こりと言われている。ブラックが徴兵されたとき、ピカソは共同作業者を失ったとして新古典主義へと歩みを進めた。
彫刻家のオーギュスト・ロダン(1840年11月12日)などもそうだろうか。創作のアイデアに行き詰ったとき、才能あふれる教え子カミーユ・クローデルと出会い、以後15年、彼女と愛人関係を続けた。今でこそカミーユは、ロダンの共同制作者という位置づけになっているが、実際、ロダンは彼女のアイデアや作風を盗み、結果、彼女の精神を追い詰めることになった。
今回紹介する大野一雄も人生の重要な時期に重要な人物と出会っている。終戦後、活動再開の第一弾の舞踊公演を21歳の土方巽(前衛芸術の一つである暗黒舞踏の創始者)が観て、その踊りに衝撃を受けた。後に土方巽氏が大野一雄のために演出した 「ラ・アルヘンチーナ頌」は1977年に初演。この作品は大野自身の代表作となり、生涯、世界各国で踊り続けることとなった。
土方巽は最初の出会いをこのように語っている。
不思議な舞台に出会った。シミーズをつけた男がこぼれる程の抒情味を湛えて踊るのである。頻りに顎で空間を切りながら踊る、感動は長く尾を引いた。
wikipedia より
蠍座の象徴の一つと言われる「変容」「錬金術」はつまりこういうことだ。
自分とは異質なものが加わることで化学変化が起こり、今まで存在し得なかったものが創造される。
最初の出会いは、まさに運命の導きのようなものだ。お互いの才能と才能、力と力、欲望と欲望が引き合う。ここからどのようなものが生まれるのか、それは誰にもわからない。一か八か、生きるか死ぬか(実際、カミーユは精神を病んでしまう)。だが、命がけでもやってみるしかないではないか。なぜなら、蠍座はこの時を待っていたはずなのだ。情熱を燃やしてくれる存在を、惹きつけてやまない価値ある存在を、心から欲していた力の存在を。
こんな大野一雄の言葉がある。
イエスに花を手向けなくていい。イエスに花を手向けるよりも、イエスから花を貰ったほうがいい。私には手向ける何ものもありません。花ひとひらありません。花が浮かんでいた。空に浮かんでいた。いっぱい空一面に花が浮かんでいた。お前には花がないから空一面に花が浮かんでいるんだ。
著書『稽古の言葉』より
そうか。蠍座的感受性が何か危うい感じを与えるのはこういうことか。「私には手向ける何ものもありません」そうだこれだ。謙虚さとも違う、何かしらの危うさ。私が蠍座を表現するときに使う“I have nothing”ということだろうか。
「花ひとひら」もないと言う。だからこちらから花を手向けるしかないように感じる。これを「頼りなさ」と感じる人もいるだろう。「依存的」を感じる人もいるだろうか。人によっては「欲深さ」と受け止める人もいるかもしれない。
けれど、これは決して一方通行ではないのだ。「イエスから花を貰う」ということは、イエスの存在を強く信じていることに他ならない。その圧倒的な存在の永遠の力を信じている。その信じる力は、ひとつの愛の形だ。
そして、不思議なもので、そのように強く信頼され、強く欲望されればされるほど与えずにはいられなくなるものだ。自分には求められるほどの価値や力があるのかもしれないと考え、そしてそのような自分を信じてみたくなる。与えるものがあるということは、私は愛されるに値する人間なのかもしれないと。
つまり、蠍座的な力とは、つまり「人の存在に力を与えること」なのかもしれない。
しかし、自分が何を欲望しているのかわからないと、こういった化学反応は起こらない。あれもこれもと目移りしていたら、強固な信頼関係は成立しない。だとしたら「イエスから花を貰う」ことはできないことになる。自分の真に求めるものを知っていれば、その力は自ずと目の前にやってくるはずだ。外には、「いっぱい空一面に花が浮かんでいる」のだから。
また、ピカソもロダンも、そして大野一雄も、既に自分自身に相手を惹きつけるだけの力や価値を持っていたことも忘れてはいけない。だからこその化学反応であることは自明である。
自分の力を自分なりに育ててきた。一方で「私には手向ける何ものもありません」という感覚がある。その感覚を携え前へ前へと進み続けていれば、いつか「need」がやってくる。そうだ。このとき、これを待っていたのだ。
だからこそ、まずは自分の「need」を理解しておかなければならい。世俗のごちゃごちゃとした「needs」の中にいると自分の真の欲求に出会うのは難しい。だから、ときに「何もかもご破算にして投げ出して。そこから立ち昇るもの」を待つ。これが最近、ブログや講座で伝えているフロイト的な言葉「人には無機的に戻ろうとする本源的な欲動がある」であるかもしれない。
2023年の蠍座期。もし自分の真の「need」がわからなくなっているなら、一度、「何もかもご破算にして投げ出して」みるのはどうだろうか。物理的に行うのは難しくても、心理的(気分的にでも)に一旦「何もかもご破算に」することで、もしかしたら何かしらの「そこから立ち昇るもの」があるかもしれない。モヤモヤした頭であれこれ「考え出したものではなくて」、心の中に「立ち昇るもの」。
この言葉は、大野一雄のダンスの稽古が始まる前に研究生に告げられた、「…では、このようなことを意識して踊ってみましょう」ということだ。
私もこの蠍座期、朝、この言葉を胸に一日を始めてみようと思う。自分の中に「立ち昇ってくるものを受け入れ」、そして「命が際限なく自由に立ち上がるときに手足は同時に行動」できるような、そんな日々を送れるように踊ってみたい。
そんな日々の中で、もしかしたら自分の「need」に見合う宝のような出会い、「いっぱい空一面に花」のような出会いがやってくるかもしれない。