心理占星術でつながろう! ご当地紹介リレー VOL.7 京都府船井郡京丹波町編(後編)

my local town

第7回 京都府船井郡京丹波町

うか子さん

ご当地紹介に旋風を起こしたい

第7回は、京都市内ではなく「京都府」のど真ん中という京丹波町。「地元」大好きなうか子さんが、特産品や観光名所ではない、ひと味違ったご当地紹介にチャレンジ! 郷土愛全開、前編&後編でお届けします。

☟前編はこちら☟

もし、『谷の京都』という枠ができたらたぶんエース……は、保津峡。

渓谷沿いの旧国道を走っていくと、開け放している車の窓から小学校の校内放送──ただいまの結果をお知らせします、一位赤組、二位白組──が聞こえて、まさにいま運動会が行われていることを知らせている。子どもが減り続けるなか、やがて一貫校となる計画がある小学校と中学校の交流を進めるため、今年は初めて小中合同で開催されているとのことだ。和知町内に三つあった小学校が合併され一つになったのは私が中学三年になる年だった。卒園した幼稚園が閉園になり、卒業した小学校が閉校になり、それでも中学校は和知に一つしかないからこのまま在り続けるのだろうと考えていたが、まさか小中一貫に再編されることで中学校も閉校にむかうとは。

自分の歩いてきた跡が、まるで焼け野原だと感じることもあるし、そのことについて「蠍座だからな……」と頭をよぎることもある。けれど、当然ながら私とおなじ幼稚園・小学校・中学校に通ったのは蠍座にステリウムを持つ人だけではないし、蠍座は「喪失体験が多いサイン」ではなく「喪失体験を乗り越えることが難しいサイン」という考え方を私は支持しているので、「自分は喪失に対して過剰に反応する傾向があるのだな」と、いまでは捉えることができている。

旧国道からまた国道27号線へ戻る。和知トンネルを抜けると国道から外れ、府道12号線を美山(南丹市美山町)方面へ車を走らせる。

すると、本日の目的地であり母の生家のある集落でもある、長瀬へと入る。長瀬も広瀬と同じくかつての長瀬村だが、もともと隣接する塩谷村の分村であった立場から独立したという経緯を持つ土地だそうだ。

長瀬の萱山の山頂近くには蛇ヶ池と呼ばれるところがある。そこにまつわる昔話を一つ紹介したいと思う。

おなじ蛇ヶ池にまつわる昔話には、地方新聞に掲載されて広く知られるようになった龍神伝説(長瀬村の娘が人知れず雨乞いをしていたが、満願を目前に父親にその姿を見られたので、竜となって雨を降らすことが叶わず、大蛇になった)もある。そちらは【長瀬 蛇ヶ池】などで検索していただくと、インターネットで読むことができるだろう。

私が幼い頃に大人から聞いた和知に伝わる昔話
「長瀬の蛇ヶ池」

昔なァ、山のほとりに、おかあはんと娘が二人で暮らしとっちゃって、月のうつくしい晩に二人で針仕事をしとっちゃったんや。そしたら、きれいな顔した若い衆が一人、遊びに来ちゃったんやって。

あんまりきれいな若い衆で、娘からしたらちょっとびっくりするほどやったんやてなァ。ほしたらもう毎晩来てんようになって、ほんでからまァ、仲よう、心やすうなっちゃってなァ。

ほいて若い衆がおかあはんに「わしを娘はんの聟はんにもろてくれてないか」ちゅうて言うちゃったんやって。それをおかあはんは「そらあかん」て言うちゃったんやけェど、毎晩毎晩来てやし、そのうちに娘のお腹が大きなったしで、もう聟はんにもらわなしやないとも思もとっちゃったんやわ。

ほんでも、この若い衆のことをおかあはんはなんやおかしい思もとっちゃったさかいに、いっぺん帰るあとをついていってみちゃろ思もて、娘は家におらせて、おかあはんだけ、若い衆のあとをついていってみちゃったんやって。ほしたらその若い衆は、さびしいような山道をなァ、とっととっととっととっとと、奥へ奥へ行ってしもてなァ。

しまいに池のとこに出たんやてェ。池のほうに歩いていった若い衆がすぽっと見えんようんなって、どういうこっちゃ思もておかあはんも池のほうに近づいてみたんやけェど、どっこにもおってない。やっぱりこんなんはおかしい、こんな人聟はんにもろてもどもならん、どないしても断らなあかん、て、思もちゃったんやってェ。

おかあはんが池のふちで思いつめとっちゃったら、だァれも人らァおらんのに、ぼそぼそぼそぼそ話し声が聞こえてきたんやって。なんやおかしい思もて、おかあはんは池の水をじいっと見とっちゃったんやけェど、声はどうも池の、水のなかから聞こえてきとるような。

ようよう聞いてみたらなァ、「おまえがなァ千夜でも万夜でも通うて、その人にそないにしとっても、人っちゅうんはなァ、桃の節句と菖蒲の節句と菊の節句に、毒下しちゅうて、どんな毒も魔ァもからだから下ろす酒をのんでしもてやさかいになァ。人に子ォを産んでもらうちゅうことはできんのや。それは望んだらあかんこっちゃ。もう行くやないで」と、そない言うて息子に言い聞かせる母親の声がしとったんやって。

それを聞いたおかあはんはとんで帰ってなァ、じきに桃の節句になる時分やったもんやで、娘に節句のお神酒をのましちゃったんやって。そしたら、娘は大きいかごにいっぱいの蛇ァの子ォを出しちゃって、ほんで、しまい。

こちらも和知弁にはなるものの、どうだろう、前回の「犬戻り」の話よりも読みやすかったのではないだろうか。短い話であるということに加えて、一言で和知弁と言っても、下和知と上和知ではすこし異なっている。

広瀬は下和知で長瀬は上和知で、その差異は現在ではかなり薄れているとはいえ、上和知のほうが下和知よりもどちらかというと上品なしゃべり方がなされる地域なのだ(例えば、じェえとかうェえとか言うのはだいたい下和知の人だし、下和知で「あかへん」「いかへん」「せェへん(しィひん)」となるのが、上和知では「あかん」「いかん」「せん」となるなど、現在一般的に言われる「関西弁」に通じる言い方になる。

これは昔、特に上和知で摂州へ年季奉公に出ることが一般的であったこととも関係があるかもしれない。「摂州奉公に行って、男は百姓習ろてくる。女は嫁入り道具して戻る」などと言われ、十三歳十四歳頃になると、ほとんど一人前になる条件のように奉公に出された時代があったのだという。摂州といえば大阪のなかでも「関西弁」らしい癖のない言葉が使われる土地である。

現代までのメディアの発達ももちろんあるだろうが、多くの地方から奉公人を呼べる豊かさがあったという歴史から「関西弁」として摂州の言葉がこれほど広まったとも考えられないだろうか。あるいは地方出身者を多く集める土地であったから、摂州の言葉は癖が薄れたのか)。

また、前編で「鎌倉時代に仁和寺と地頭が分け合って和知上荘・和知下荘」となったことを記したが、そうして二分された際に、仁和寺の持ち分となったのが上和知・地頭が治めることになったのが下和知なので、仁和寺や都に連なるなにか高貴なものが、上和知には残り下和知では途絶えた、と考えることもできるのではないかとも私は想像している。

母の生家の敷地に車を置かせてもらい、徒歩で本日の目的地であるオートキャンプ場・アグリパークわちへとむかう。

山野の草木や庭の植栽で多様な植物があるためか、シロチョウ、シジミチョウ、タテハチョウ、モンチョウと、さまざまな種類の蝶が飛び交っており、目的地があることなどお構いなしの子どもは夢中になって蝶を追っていた。しかし、蝶が道のないところへ飛んでいけば追う術をなくしてしまう。

これは私が近年いわゆる住宅街で生活するようになって気づいたことだが、虫だの鳥だのは、山野よりも町中のほうが長く追い回すことができる。なぜなら町中は路地が縦横に走っており、それが鳥や虫を目にとらえ続けるための足場となるのだ。抱っこ紐に生後数ヶ月の子どもを入れて、殊更足を早めることもなく、10分を超えて同じイソヒヨドリを追っていた、あの時の感動は忘れられない。山野には道はあっても路地はなく、鳥や虫に目を奪われたまま走ろうものなら足元はおぼつかなく、田畑や、悪くすれば水路にも落ちてしまうことになる。かと言って足元を気にしていれば、たちまち相手はひらりと舞い上がり、山へでも谷へでも姿を消してしまうだろう。ただ、山野では追う相手が無数に飛び交っているため、見失ってもまた別の追う相手を見つけることは容易い。

長瀬の集落と、目的のオートキャンプ場とのあいだには深い谷があり、そこに渡されたまだ新しい橋が長瀬大橋だ。橋を渡り、広域林道の出入り口を過ぎると、駐車場に入りきらなかったらしい車の列が目に入る。音楽も聴こえ、いよいよ賑わいが感じられた。

和知で一番高い山・長老ヶ岳 ~静岡が「山梨に富士山をとられた」というように、美山も「和知に長老山をとられた」と思っているのでは?

今年で16回目となった和音祭(わおんさい)は、音楽ステージもあり個性豊かなブースもたくさん並ぶ、楽しいイベントだ。行き交う車をさほど気にしなくてもよく、小さな子どもを連れて出かけやすいので、毎年楽しみにしている。

ステージでは、和知や周辺の出身で音楽活動をされている方をはじめ、その繋がりのある人々がめくるめくパフォーマンスを披露してくださる。音楽には本当に疎いので適切に評価できる自信はまったくないけれど、周りには山しか見えないのにアーバンな雰囲気の音楽が演奏されたり、周りには山しか見えないのに潮騒を感じる音楽が演奏されたり、おなじステージに次々と別の世界観が描き出されるのがとても素敵だと感じた。

さて、この和音祭では、和知の郷土芸能である和知太鼓と文七踊りのステージもあるので、その紹介をしてみたい。

和知太鼓は、平安時代、帝より大江山の鬼退治の命を受けた源頼光一行が、広野の藤ノ森神社で雨宿りをした際に、村人が武運長久を祈願して打ち鳴らした奉納太鼓が起源とされ、いまも祭りやイベントには欠かせないものとなっている。私には音楽的なことがさっぱりわからず、太鼓のリズムが素朴なのか勇壮なのかを感じ取ることはできないが、とにかくリズムもばち捌きもドッコイドッコイドッコイセードッコイセーノの掛け声も、どれも私には馴染みのいいものだ。あまりに馴染みがいいせいか、大音量なのに心地よさが勝って眠くなる。

それにしても、名前も単に「和知太鼓」となると、いかに想像を書き散らかしたくてたまらない私であっても、ここばかりはつけ入る隙がない。古い地名の鼓打郷との関連を妄想するくらいしかできないが、この鼓打郷に本当に和知が含まれていたかどうかを定かなものとする資料をあたったことがまだないのだ。

もう一方の、文七踊りというのは、浄瑠璃くずしの音頭と踊り手のアラヨッコイセーエヤットコショの掛け声からなる盆踊りだ。文七というのも浄瑠璃の首(かしら)の一種類であることから、その由来に浄瑠璃がかかわっていることは間違いないだろう。和知の郷土芸能には人形浄瑠璃もあるが、文七踊りは江戸時代、和知人形浄瑠璃は幕末から明治の初めにかけて、という発祥時期の順序を思うと、文七踊りに取り込まれた浄瑠璃の要素は和知人形浄瑠璃が由来ではなく、遊芸人による人形使い(遊芸人が人形の入ったかごを棒で担いでやってきて、家のかどで浄瑠璃を語りながら人形も使ってみせたという)などにかかわりがあるだろうことが想像できる。

そしてこの二つに和知人形浄瑠璃と小畑万歳を合わせたものが、和知の四大芸能だ。

私が子どもの頃はたしか「三大芸能」と呼ばれていたと記憶しているものの、その三つがなんだったのか……和知人形浄瑠璃と和知太鼓は間違いないとして、もうは一つは文七踊りだっけ? 小畑漫才だっけ? と、記憶はおぼろげだ。小畑漫才を下和知の小畑集落に属しているものと思えば、「和知の」となるとやはり文七踊り? そこの見極めが難しいので、「四大」に改められたのは個人的にはうれしい。四大芸能をモチーフとしたデザインの包装紙(パッケージ?)が、たしか道の駅で扱われているのを見かけて、それもかわいかった。

こんなふうに郷土芸能について考察を試みることは楽しいけれど、リズム感や音感や運動能力や見映えや……とにかく文化的で芸能的な才能や素養に乏しい私には、郷土のものとはいえ芸能を紹介するのは骨が折れるし自分の評価に確信が持てないし、なんだか分不相応なふるまいを詫びたいような気持ちにもなる。

和音祭を楽しんで、また蝶を追い回す子どもを追いかけながら車へと戻り、由良川沿いを川下へむけて、帰路についた。私はいま、和知を離れて山陰街道の通る町に暮らしているのだ。

家に帰りついて夜も更けた頃、父からLINEでメッセージが届いていた。
昼間、和音祭で合流した時に「今年の上和知中部村まつりがいつなのか」と訊ねていたことへの返事だ。今年は11月4日に開催されるという。

この祭りが行われるのは旧和知第二小学校の芝生広場。足元が芝生ということで、むやみに走ってはやたらと転ぶ幼児を連れていくにはちょうどいいのだ。また、旧和知第二小学校の、飴色に照り輝く木造校舎と校庭の大銀杏からなる光景は本当にうつくしいので、子どもに見せられる限り何度でも見せておきたいという私のエゴもある。

そういえば父のLINEのアイコンは七色の木で、これは和知の(現在では京丹波町の)史跡の一つであり、杉・欅・イロハモミジ・藤・茅・楓の6種類の木が、一本の桂の木に宿っているという大木だ。


かつて父はこの木を、趣味なのか仕事なのか両方を兼ねていたのか、しばしば撮影に出かけていた。それで、長老山(南丹市と京丹波町……というか美山町と和知町のあわいに聳える和知で一番高い山・長老ヶ岳の通称。晴れた日には山頂から日本海が見える)のふもとの仏主集落まで、幼かった私も幾度となく同行し、時々は長老山にも登った。

ちなみに、私にとってこの七色の木は、タロットカードの「カップの7」から常に連想されるイメージでもある。

カップは火地風水の最後、小アルカナ「7」のストーリーのフィナーレであり、「8」を予感させるカードだ。

それぞれに個性的なものが七つのカップから顔を覗かせているわけだけれど、迷いの先にある自分らしい選択は「共生」ではないだろうか。

本当はまだまだ書き足りなくて、ギギタの骨酒やお盆のお迎え団子についても話したいし、山陰線と山陰街道のズレと和知の関係を考察して話したいし、そもそも心理占星術的なアプローチが足りていない気もするし、と、欲は尽きないが、ひとまずこれで我慢したい。

「土星=海王星/水星」感覚の喜び

最後に。私は2017年夏の職業占星術のクラスを受講して以来、自分の持つ「土星=海王星/水星」というミッドポイントの発露を意図的に求めている。抽象言語と呼ばれうるものに枠組みを与えるような、芯を通そうとするような、そういうことができる機会に、ぜひ身を置きたいと考えてきた。

今回もこうして書かせていただいたなかで、この「土星=海王星/水星」に合致するものがあったと感じている。郷土に生きた人々の感情や営みが反映された伝統や伝承について、自分なりに考え説明を試みることは、私にとって強い覚醒の感覚をともなう作業だった。頭が冴えるという言い方では足りないような、思考が想像や妄想も含めてさまざまな方向へ錯綜するけれど、混乱する感じはさほどなく、あくまでも思考は自分の指揮下にある、という手応えがあるのだ。情熱を持って取り組める、楽しく喜びに満ちた作業だった。

参考資料
文中にある昔話は、私が幼い頃に大人から聞いた断片的な昔話について、資料を頼みに筋や詳細を補い、和知弁に直したものです。

・稲田浩二編『丹波和知の昔話』掲載の【蛇聟入(い)】


この記事を書いた人

うか子さん

冥王星のハーフリターンについて考察したレポート「トルコの歴史に見る冥王星のはたらき」を初投稿。以来、「赤ペン12サイン占い」を担当、2017年12月から毎月書き続け7年目を迎えるベテランさんです!


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