アポロンの竪琴
2023 射手座~吉本隆明
利を得ると同時に
毒もまた得る
対立や硬直した二元論からの脱却
著名人の言葉から12の太陽サインの生き方を考えてきた「今月の言葉」がリニューアル!
自分の理想=太陽を生きるためには、何が必要なのだろう。
水星神ヘルメスが発明した太陽神アポロンの竪琴の神話をご存じですか。太陽の理想や意図は、水星という竪琴=言葉があるからこそ美しい音色を奏でることができるもの。太陽の言葉=アポロンの竪琴のメッセージに耳を澄ませてみてください。
あなたの生き方、働き方のヒントを受け取ることができるかもしれません。
心理占星術家nicoが選んだ今月の竪琴
射手座・太陽の言葉は…
僕自身いじめっ子だったという過去がある。たいていのクラスにはいじめられやすい子というのがいた。何となく恐縮したような雰囲気だったので、からかいやすかったせいだと思う。僕は腕白で悪童だったから、先頭を切ってからかったり、小突きまわしたりしていた。
著書『真贋』より
ある日、いつものようにクラスのいじめられっ子を追いかけまわし、馬乗りになっていたら、その子は履いていた自分の下駄を脱ぎ、その下駄で僕の頭を思いっ切り殴った。
頭を殴られた僕は、一瞬フラフラして、何が起きたのかすぐにはわからなかった。そして次の瞬間、膝がガクガクし、地面に膝をついていた。その隙にその子は走って逃げていった。
この野郎、生意気だ。不思議なことにそういうことは一切思いつかなかった。逆に僕は、面白半分に人のことをからかったり、いじめたりしてはいけないと本気で思った。いじめる根拠があるのならまだしも、その子には関係のない自分のうっぷんを晴らすためや、まったく違う目的でいじめたり、からかったりすることはよくないことだ、と大変反省させられたという記憶がいまもある。
いじめられていた子にとって、下駄で殴るというのは最後の切り札だったのかもしれない。力いっぱい頭を殴られたことで、僕は目が覚めた、といえば大げさだが、それ以上のことをする気も何もなくなってしまうくらい衝撃を受けた。
真剣に自分の人生を生きている、そういうことに気づかされた瞬間だったと思う。
射手座の言葉
吉本 隆明(よしもと・たかあき)
1924年11月25日、東京生まれ。太陽、水星、木星を射手座に持つ。
詩人、批評家。
1950年代、『固有時との対話』『転位のための十篇』で詩人として出発するかたわら、戦争体験の意味を自らに問い詰め文学者の戦争責任論・転向論で論壇に登場した。60年安保闘争を経て、61年「試行」を創刊。詩作、政治論、文芸評論、独自の表現論等、精力的に執筆活動を展開し「戦後思想界の巨人」と呼ばれる。80年代からは、消費社会・高度資本主義の分析を手がけた。主な著書に『言語にとって美とはなにか』『自立の思想的拠点』『共同幻想論』『心的現象論序説』『吉本隆明全詩集』等がある。
9番目のサイン射手座は、支配星の木星の影響からなのか、神話の由来にもなっている半身半獣のケンタウルスの影響なのか、なかなかアンビバレンス*な特徴を持っている。
*アンビバレンス(ambivalence) 同一対象に対して、愛と憎しみなどの相反する感情を同時に、または、交替して抱くこと。 精神分析の用語。 両面価値。
明―暗、正義―悪、正直―欺瞞、純粋―不純、誠実―不誠実など、相反する欲求を抱きつつ、葛藤する。どちらが自分にとって正解なのか、どちらが自分にとって喜びなのかを自問自答し、揺れ動きつつ、目の前の現実を生きていく。
いや、人によっては、どちらか一方(多くの場合、社会的報酬が多い方)の態度を選択することになるだろう。周囲に浮かない生き方を、人の期待に応える生き方を、収入が多い生き方を、易きに流れる生き方を、その時々で選び取っていく。
いつの日か、ふと我に返り、もう一方の可能性があったことを忘れていたことに気づくのだろうか。
ああ、自分ももう少し違う生き方ができそうだ。いつまでも優等生をやらなくてもいいのだ。明るい娘をやめてもいいのだ。物分かりのいい人間なんか飽き飽きだ。会社の言いなりなんてまっぴらだ。ものを知らなくてもいい。男を立てるのは金輪際お断りだ。いつまでもお調子者なんてやってられない。人のために生きているわけじゃない。
そう。射手座=木星で言われている可能性とは、つまりまだ生きていない自分を発見すること。自分を見出す冒険、これが射手座=木星の可能性のひとつだともいえる。
占星術的に説明すると、7番目のサイン天秤座、8番目のサイン蠍座の歩みの中で他者と出会う。そこで体験される葛藤――精神分析家のビオンの言う「ふたつのパーソナリティが出会うとき、そこに情緒の嵐が生まれる」――を通して内なる自分の欲望、もう一つの可能性に気づき、そして射手座へと向かっていく。
自分が良しとしていた生き方、こだわり続けた考え方、自分が憧れ続けた生活、信じてやまなかった理想が天秤座、蠍座、射手座の歩みの中で大きく揺さぶられ、打ち砕かれ、そしてやがて発見される。この痛み、この失望に堪えられた者、乗り越えられた者だけが、自己を救済できるのだ。
吉本隆明は著書『真贋』において、様々な語り口で二元論の限界について書き綴っている。
無意識のうちに答えが決まっている価値判断は、無意識のうちに人の心を強制します。明るいからいい、暗いからだめだという単純な価値判断を持っていると、そう思えない自分、そうではない自分を追いつめる結果になってしまうからです。人間は閉じられた環境や空間の中では、教養も知性もある人でさえ、理性的な判断ができにくくなるという特性のようなものがあります。それは僕にもよくわかります。善悪二つのモノサシしか持っていないと、人間は非常に生きづらさを感じるものなのです。
僕は小説や詩を読むことで、心が何かしら豊かになるということを妄信的に信じている人がいたら、少し危険だと思います。「豊かになる」ということほど、あてにならない言葉はないからです。もちろん、本を読むようになって、世間一般の人があまり考えないことを考えるようになったという利点はあるでしょう。でも、そうした利を得ると同時に、毒もまた得ると考えたほうがいいと僕は思っています。
いろいろな仕事にそれぞれ毒はあると思いますが、以前はぎりぎりのところで毒と利のバランスがある程度うまく保てていたような気がします。しかし、この頃はいろいろな職業の毒みたいな部分が表に次々と出てきているようです。
いいことをいいこととして言うと、みんなが道徳家になってしまいます。これはよい、これは悪い、こうするのはよい、こういうのはよくないぞと断じていくようになり、いつももっともらしい口ぶりになっていくわけです。それはある種の毒です。
いいことを言うときはさりげなく、平気な感じで言ったほうがいい。逆に、ちょっと腕白な悪童のようなことを言うときには大きな声で言う。そうすると、毒のまわり方は少ないと思っています。僕はできるだけそうしています。
射手座のモダリティ(活動様式)は柔軟サイン。柔軟サインとは環境との調和という意味があるが、それは上記のような対立した概念を絶対的とするのではなく、一つの行為に両方の側面が内在しているという相対的な概念をとらえていく、そういった脱構築、可能性と可能性の間を揺れ動き続けることを目標とするということ。それがいわゆる「優柔不断」と言われることの多い柔軟サインのカラクリということになる。
また、同じく射手座の哲学者・千葉雅也も著書『勉強の哲学 来るべきバカのために』の中で同じようなことを伝えようとしている。「ツッコミ=アイロニー(根拠を疑う)とボケ=ユーモア(見方を変える)で思考し、環境から自由になろう」「ナンセンス=無意味を徹底して行おう」という。
このように自分自身に揺さぶりをかけて、未知の自分と出会い続けるということだ。
そこで冒頭の吉本隆明の言葉を見てみたい。いじめっ子ーいじめられっ子という図式、いじめられっ子という固定された役割から解放されるプロセスであり、見事に抜け出しているのがわかるだろう。
頭を殴られた僕は、一瞬フラフラして、何が起きたのかすぐにはわからなかった。そして次の瞬間、膝がガクガクし、地面に膝をついていた
こうした他者の介在による天秤座―蠍座的体験、そこから得られた大きな気づき。私たちは人生の中でどれだけ自分を知る可能性に恵まれていることだろう。けれど、どれだけこの目覚めの機会に無知であることか!
下駄で頭を殴られることがなかったら、「いじめっ子」のプライドにこだわっていたら、もしかしたらその後の人生で「ものを考える仕事」へと向かうことはなかったかもしれない。この「好機」に気づけるかどうかが個人の内的成長に大きくかかわってくる。
ここまで読んでもらった皆さんなら、きっと占いでまかり通っている「木星は幸運、好機の星」の「幸運、好機」のイメージから脱することができるだろう。「幸運、好機」とは、つまり「下駄で頭を殴られること」、まさに「乞食の格好をした神」に他ならないのだ。
2023年射手座期は、ぜひ下駄で頭を殴られ、そしていじめっ子からいじめられっ子へと、またはその逆、下駄で頭を殴り、そしていじめられっ子からいじめっ子へと向かい、硬直化した、または過剰となった姿勢に揺さぶりをかけてみること。利と毒の双方の理解を深め、内的精神のバランスを整えること。そんなことを意識して過ごしてみてほしい。